読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

森村泰昌『まねぶ美術史』(赤々舎 2010)若年:苦味という感覚の味わいの深さ

近現代美術界。商業的にひとりの美術家が成功すると、その周りにいたひとたちも同時に注目されるようになり、すこし潤う。知られず見られることもなかった状況から、共に見られる状況にすこし変わる。それぞれの作家への深入りは、あったりなかったりで、必ずしも全体が浮上するということはないのだが、それでも、個々の鑑賞者の感性のベースになる、各自独特な記憶の参照項のストック、ウロクズのようなストックは確実に増える。


本書は若かりし森村泰昌の浮かばれなかった芸術活動と、その時期に藻掻きながら見つめ続けた美しい藻としての数々の先行作品とのコンビネーション、コラボレーションを味わえる作品集。ブレイク前の森村泰昌の作品を中心に60点と、「まねぶ」活動とともにあった先行作品作者51名の作品が、見開き2ページのなか、多くは森村泰昌の回想コメントとともに鑑賞できるつくりになっている。もとは富山県高岡市高岡市美術館で2010年に開催された「森村泰昌モリエンナーレ/まねぶ美術史」展覧会の作品の構成を、著者エッセイなどを追加して一般書籍化したものである。感性が合わないためかバカバカしいと思う作品もいくつかふくまれていたりはするものの、総じて歴史的にも意義ある作品を収集している作品集であり、作品の影響をもろに受けた後続世代の習作の生々しさと、自分の個性の側に振りきれていない若く売れない芸術家のもどかしさを痛みとともに味わえる作品集となっている。

 

読後感は、自分の感性と市場が折り合える方向性を見出せてよかったねということに尽きたりはするのだが、多くの売れない喰えない美術家のなかでのひとつの成功ケースとしての、苦みもぞんぶんに含まれている作品の味わいが後を引く。若き日の消しようのない失策への悪意のないまなざしと、過去の挑戦への愛着が鬱陶しくなく提示され、著者の愛好する先行作家の作品とともに昇華されるよう作品が配置されているのがうらやましい。うすい、うわすべりの、ペラペラの色と奥行きであっても、全力感だけは伝わる、自作と摸倣対象との組み合わせの一回性、宿命性。
無駄ではなかったよ、昔のオレ。まあ、頑張ったな、と言いそうな具合の本の造りには、かなり同調したい。ほっそい体の若き森村泰昌ポートレートを見るにつけ、倒れずすすめと、もう倒れることも芸術になってしまうであろう今現在の美術家森村泰昌の姿を透かし見ながら思う。エモーショナルに味わっていたい一冊。

 

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【付箋箇所】
2, 6, 27, 32, 41, 51, 53, 104, 112, 125, 130, 152

目次:
第1章 匂いの記憶/1960年代初め
第2章 太陽とテレピンと青春/1960年代中頃
第3章 すべてを追いかけ、追いつけず/1960年代後半
第4章 絵画、絵画、絵画!/1970年代
第5章 あの頃、芸術は光っていた/1960年代後半~1970年代
第6章 アングラでサイケな闇の光/1960年代後半~1970年代
第7章 「アンチ」クショーとの長いおつきあい/1960年代~現代まで
第8章 おとなが哲学する芸術の話/1970年代
第9章 ハンガ・ストライク/1983年
第10章 めまい、やまい、やばい/1980年前後
第11章 アメリカンフィーリング/1980年代
第12章 なんでも似てやろう/1990年代
終章 「私」美術史/アッちゃんの電気服

森村泰昌
1951 -