読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

『文選 詩篇 (四)』(岩波文庫 2018)無文字から微・風・吹・閨・闥・羅・帷・自・飄・颺

第四巻は贈答、行旅、軍戎、郊廟、楽府の詩を収録。左遷や離別などの憂愁を詠ったものが多く、身近に感じることのできる詩が多い。特に民間の歌謡とそれを模した歌謡詩を収めた「楽府」の詩は繰り返し読める。

傷歌行

昭昭素明月
輝光燭我牀
憂人不能
耿耿夜何長
微風吹閨闥
羅帷自飄颺
攬衣曳長帶
屣履下高堂
西安所之
徘徊以彷徨
春鳥翻南飛
翩翩獨翺翔
悲聲命儔匹
哀鳴傷我腸
感物懷所思
泣涕忽沾裳
佇立吐高吟
舒憤訴穹蒼

昭昭(しょうしょう)たり素明(そめい)の月
輝光(きこう) 我が牀(しょう)を燭(て)らす
憂人(ゆうじん) 寐(い)ぬる能(あた)わず
耿耿(こうこう)として夜何ぞ長き
微風 閨闥(けいたつ)を吹き
羅帷(らい) 自(おのずか)ら飄颺(ひょうよう)す
衣(ころも)を攬(と)りて長帶(ちょうたい)を曳き
屣履(しり)して高堂(こうどう)より下(くだ)る
東西 安(いず)くにか之(ゆ)く所あらん
徘徊して以て彷徨す
春鳥(しゅんちょう)は翻りて南に飛び
翩翩(へんぺん)として獨り翺翔(こうしょう)す
悲聲もて儔匹(ちゅうひつ)に命じ
哀鳴して我が腸(はらわた)を傷ましむ
物に感じて思う所を懷(おも)えば
泣涕 忽ち裳(もすそ)を沾(うるお)す
佇立(ちょりつ)して高吟(こうぎん)を吐き
憤りを舒(の)べて穹蒼に訴う

岩波文庫では読み下し文は総ルビ

 

岩波文庫版では閨怨の詩と解釈しているが、ネット上で調べてみると『樂府詩集』巻六一「傷歌行」に張籍の詩とともに収められた唯一の作品であることも考えあわせて、左遷された元高級官僚の嘆きの詩と解釈してもよさそうな気がしている。張籍の「傷歌行」は京兆尹楊憑左遷事件を題材にした歌謡詩とされている。今回の調査で一番参考になったのは専修大学教授松原朗氏の研究論文「盛唐から中唐へ――楽府文学の変容を手掛かりとして」の記述。文選の古辞の「傷歌行」の「悲聲命儔匹」からの四句で「友人(儔匹)との哀しい別れを訴えるものとなっている」と述べられている。個人的には「佇立吐高吟、舒憤訴穹蒼」の詩句からは女よりも男を想像するし、「春鳥翻南飛、翩翩獨翺翔」の詩句は渡り鳥の集団からはぐれてしまい独り慌てさまよい飛ぶ鳥の動揺を感じる。菅原道真が詠ったとしも不思議ではない詩の感覚だ。菅原道真だったらもう少し表現が穏やかであろうけれども。

「楽府」が民間歌謡詩を採集するための国家機関として設立されたのは、漢の武帝の時、ざっと紀元前100年すこし前。役所としての「楽府」から詩のカテゴリーの「楽府」になって『文選』に集められたのは530年ごろ。集められた詩は紀元前二世紀から約800年間の詩。「楽府」を読みながら思ったのは、『文選』成立時は、日本にはまだ文字がなかったのだなということ。そんな時代に中国では「微風吹閨闥 羅帷自飄颺」(そよ風が閨-ねや-の戸に吹き、薄絹のとばりがひとり揺れ動く)という文字記号での表現が成立していた。微・風・吹・閨・闥・羅・帷・自・飄・颺、無文字からこの記号との距離と出会いは衝撃的だろう。人間は何にでも慣れてしまえるけれど、もう一度驚き直すこともできる。じっと字を見てしばらく過ごす。

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【付箋箇所】
謝霊運 還旧園作見顔范二中書
潘岳 河陽県作二首
※楽府全般


訳注
川合康三
富永一登
釜谷武志
和田英信
浅見洋二
緑川英樹