読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

【お風呂でロールズ】08.『政治哲学史講義』マルクス(講義Ⅰ~Ⅲ)格差原理は共産主義にまさるというロールズの押し出し

ロールズマルクス講義では、マルクスが考えていた理想社会を、『資本論』のなかでよく使われる呼称から「自由に連合した生産者の社会」と呼び、その実現段階としては「社会主義」と「共産主義」があるとし、このふたつの段階の差異として、『ゴータ綱領批判』を参照しながら、「共産主義」は「社会主義」の段階ではまだ残存していた分業と不平等が克服された「強制のないラディカルな平等主義」であることを挙げている。「共産主義」段階では、社会を構成する全員によって「民主的に到達された経済計画」を運営実現しているので、「イデオロギー意識は消滅し、疎外も搾取もなくなる」ため、権利や正義の感覚をもつことが「もはや不必要であり、もはや社会的役割をもたない」ような社会となっている。ある箇所では『ドイツ・イデオロギー』でのマルクスの見解をまとめて共産主義社会を次のように性格づけている。

この社会は、人々がお互いを助けるように命じられる社会ではありません。あるいは、その社会の文化によってさまざまな義務や責務を人々に教え込んである社会でもありません。そうではなく、それはそのような道徳的な教えのない社会です。そこでは人々がいかなる深刻な利益の争いもお互いにもつことはなく、分業が克服されているので心のおもむくままにしたいことをしてもよい社会なのです。
(講義Ⅲ マルクスの理想――自由に連合した生産者たちの社会 第六節「完全な共産主義――社会主義の初期の欠陥の克服」 p747 )

 このユートピア的世界は、サン・シモン, フーリエ, オーウェンなどのユートピア社会主義者を批判した当のマルクスが、実現すべき世界の像として提示したものであり、彼らの基礎のないユートピアとしての未来社会とは異なり、将来的に必然性のある科学的アプローチで資本主義社会を分析した結果の未来の社会像となっていることは注意してよい。どれだけの未来になるか、どれほどの条件下で、合理的で能動的な発展と克服と制約制限の先にあるのかは分からないが、カントの世界共和国と同じく、現実の歴史的展開上で社会が進展し収束していく方向性を示す統制的理念として現時点でも存在していると思っておけばよい。
二十一世紀の現在、想定可能な未来において資本主義経済が克服される可能性はほとんどない。資本主義経済の成長ベースの時代が終わりを迎えつつあり、さまざまなリソースにも限界があることを考えざるを得ないようになった風通しの悪い閉塞状況が、これから先長く続いていくであろうことは想像できても、分業と商品経済がない世界がどのようなものか具体的に想像できる段階にはまだなっていない。非営利の団体がこれからも増えていくであろうことは予想できても、国家や徴税システムや保安警察システムや公共サービス提供システムが揚棄され、世界市民の手で共同運営されることは想像つかないし、国際レベルや国家行政レベルでの許認可サービス業となっている医師、薬剤師、弁護士、会計士などのポジションに許可なしで心のおもむくまま就いてもらっても異常が起こらない世界を具体的に想像することはできない。分業が克服されるほどに共産主義が進展するまでには、克服していくべき段階、通過すべき段階が、いくらでもあるだろう。利益の争いを持つことなく、平穏に協調できる世界は、現時点では夢であり物語であるが、この夢と物語の方向で妥当な社会を見いだしていくほか希望はない。リアルな悪夢ばかりだと闇に引き込まれるばかりだ。

ロールズは、マルクス共産主義の世界では最大の幸福を実現できないと論じて、格差原理によるよりよい社会体制実現の方向性を示している。現時点では到達していない「分配的正義の問題を生じさせる環境が乗り越えられている」共産主義的社会、そこには至らないところでのリベラルな社会主義的社会の成立に眼目を置くロールズは、資本主義社会における自由奔放と共産主義時代における自由奔放の間で、リベラルな社会主義的社会に生じる最大幸福の実現のための正義による強制力を選択し、肯定的に語っているように見える。

公正としての正義をそなえた秩序ある社会という観念は、マルクスの完全な共産主義社会の概念とはまったく違っています。完全な共産主義社会は正義を超越した社会のように思われます。それは、この社会では分配的正義の問題を生じさせる環境が乗り越えられていて、市民たちは日常生活のなかでその問題に関心をもつ必要はないし、もちもしないという意味においてです。これに対して公正としての正義は、デモクラシー体制の政治社会学についてのいくつかの一般的な事実(たとえば、理に適った多元性の事実)を所与とするならば、さまざまな種類の正義に含まれる原理や政治的価値は、つねに公共的・政治的生活において一定役割を果たすだろうと想定します。正義が、分配的正義さえもが消えてなくなることは可能ではないし、私の見るところ、望ましいことでもないと思います。
(講義Ⅰ 社会システムとしての資本主義に関するマルクスの見解 第一節「はじめに」 p645 )

現実的にはマルクス共産主義も、ロールズの公正としての正義による分配的正義が確立された世界も到達可能であるとは思えない。そこに向かう段階はそれぞれ何段階もあるだろうし、重なる部分も多々あるだろうが、世界的に平等で妥当な分配が本当に実現可能であるとは思えない。というか、現時点では想像ができない。もうすぐ80億人になる世界すべての人々が等しいと思える社会的基盤と文化の状況が分からない。少なくともマルクスは「分業が克服されている」社会と明示しているが、ロールズの公正としての正義や格差原理の実現した世界がいかなるものかを簡潔には述べていない。どちらも現実不能であるならば、現時点では現実不可能と明確に思えるマルクス理想社会のほうが、定義もはっきりしていて、個人的には好感が持てる。カントの定言命法「すべての理性的存在者は、自分や他人を単に手段として扱ってはならず、 つねに同時に目的自体として扱わねばならない」に近いのも、ロールズよりもマルクスのような気がする。ロールズの思想からは最大幸福を計算化できると主張する権力観同士の争いと、市民に対する強制力を行使する特権的グループの存在のニオイが拭いきれない。
マルクスロールズ、どちらも現実不可能な理想としての社会像であるなら、世界共和国が所有する各種機械によって基本的に分業が克服されているかもしれないと、人間以外の可能性について想像をめぐらしてもいいかもしれない。機械が支配するディストピアが想像できるのであれば、機械と共生するユートピアを想像することもまた可能であろう。

 

【チェック箇所】
645, 648, 653, 654, 659, 666, 667, 688, 698, 703, 724, 727, 731, 738, 741, 749, 754

www.iwanami.co.jp

 

ロールズ『政治哲学史講義Ⅱ』(原書 2007, 岩波書店 2011, 岩波現代文庫 2020)
※サミュエル・フリーマン編, 訳:齋藤純一, 佐藤正志, 山岡龍一, 谷澤正嗣, 髙山裕二, 小田川大典

 

マルクス
講義Ⅰ 社会システムとしての資本主義に関するマルクスの見解
 第一節 はじめに
 第二節 社会システムとしての資本主義のいくつかの特徴
 第三節 労働価値説
 補 遺
講義Ⅱ 権利と正義についてのマルクスの構想
 第一節 正義についてのマルクスの見解におけるパラドックス
 第二節 法律的構想としての正義
 第三節 マルクスは資本主義を不正義として非難している
 第四節 分配についての限界生産性理論との関係
 第五節 価格のもつ配分的役割と分配的役割
講義Ⅲ マルクスの理想――自由に連合した生産者たちの社会
 第一節 正義についてのマルクスの考えは一貫しているか
 第二節 なぜマルクスは正義についての考えを明示的に議論しないのか
 第三節 イデオロギー意識の消滅
 第四節 疎外のない社会
 第五節 搾取の不在
 第六節 完全な共産主義――社会主義の初期の欠陥の克服
 第七節 完全な共産主義――分業の克服
 第八節 共産主義の高次の段階とは正義を超えた社会なのか
 むすび

ジョン・ロールズ
1921 - 2002
カール・マルクス
1818 - 1883