読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

中島敦(1909-1942)の遺作「李陵」と典拠の中国古典

『文選 詩篇 (五)』で李陵と蘇武の作とされる漢詩を読んで、中島敦の「李陵」が気になりだしたので、典拠として挙げられている中国の古典とともに久しぶりに読んでみた。高校以来だろうか。「李陵」の主要な登場人物は前漢第七代皇帝武帝が北方の匈奴と攻防を繰りひろげていた時代を生きた李陵、蘇武、司馬遷の三人で、それぞれ四十歳を過ぎて恥辱にあってから没するまでの生涯が作品では描かれている。登場人物たちの物語の起点となる事件にあった年齢を過ぎたところで読み返してみると、響き方がだいぶ異なる。人生における痛みがより理解できるようにはなってきているのだ。作者の亡くなった年齢も思い合わせると、鈍い痛みのようのものも心に残る。歴史に名を残している人と自分を比べてみれば、能力やスケールの違いに大概へこむことになるのは致し方ない。
今回、中島敦の「李陵」と併せて読んだのは、ウィキペディアで典拠として挙げられたもののうち、『文選』(「答蘇武書」「任少卿報書」)、『史記』(「李将軍列傳」)、『漢書』(「李広蘇建伝」「司馬遷伝」)。読み合わせての印象では『漢書』「李広蘇建伝」をベースに、中島敦が主要三人物に脚色を施していったというのが「李陵」のつくりで、一番多く中島の言葉が入っているのが第二章の中心人物となっている司馬遷の姿と想いについての表現だ。匈奴に囚われの身となって生きた武官二人よりも、皇帝に意見したために宮刑を宣せられ、生き恥をさらしながら生きることを受けいれざるを得なかった文官司馬遷に、小説家中島敦はより思い入れが強かったのではないかと思われた。作品の中心線は武官二人の対照的な最後と評価の対比にあるとしても、作品の味わいをより複雑にしているのは、武人と文人での活動領域の違いとその領域における逆境への抵抗のあり方の違いではないかとも思われた。

後代の我々が史記(しき)の作者として知っている司馬遷は大きな名前だが、当時の太史令(たいしれい)司馬遷は眇(びょう)たる一文筆の吏(り)にすぎない。頭脳の明晰(めいせき)なことは確かとしてもその頭脳に自信をもちすぎた、人づき合いの悪い男、議論においてけっして他人ひとに負けない男、たかだか強情我慢の偏窟人(へんくつじん)としてしか知られていなかった。彼が腐刑(ふけい)に遇あったからとて別に驚く者はない。 

彼は、今度ほど好人物というものへの腹立ちを感じたことはない。これは姦臣(かんしん)や酷吏(こくり)よりも始末が悪い。少なくとも側(かたわら)から見ていて腹が立つ。良心的に安っぽく安心しており、他にも安心させるだけ、いっそう怪(け)しからぬのだ。弁護もしなければ反駁(はんばく)もせぬ。心中、反省もなければ自責もない。

李陵と蘇武が『漢書』で描かれている事件と人物像とほぼ同等の姿で描かれているのに対し、司馬遷の言動は『漢書』の記載よりもより微細な襞を付与されていて、比較的目立たない記載部分でも外面的考察や内面描写が加えられて、司馬遷の人物像には微妙な陰影と奥行きが与えられている。『漢書』の恥辱を受けて屈折した感情が強い司馬遷よりも、運命に翻弄されて人生に揺さぶられながら生ききった司馬遷が描かれているため、彼への同情が増幅されるようになっている。
祖国に対する揺るぎない想いを曲げずに生きて最後に賞賛を浴びた蘇武、官吏としてのあるべき姿を貫こうとしたがために辱めにあったがライフワークを仕上げるために屈辱とともに生きつづけた司馬遷、祖国を思いながら祖国と齟齬を来たして二重拘束のうちに没した李陵。漢と匈奴という国、武帝単于(ぜんう)というそれぞれの統治者を背景として、三者三様の人生が拮抗して描かれた作品「李陵」は短いながらも非常に読み応えのある作品であり、遠い歴史を題材にしていることもあって、逆に現代でも古びていない作品であった。

※今回、中島敦「李陵」は青空文庫の新字新仮名バージョンを利用