『精霊の王』は、著作の位置としては『日本文学の大地』『フィロソフィア・ヤポニカ』のあと、カイエ・ソバージュシリーズの執筆を行なっていた時期の作品。この後、『アースダイバー』『芸術人類学』とつづいている。
『日本文学の大地』で能の理論家として世阿弥よりも金春禅竹を高く評価していたことに魅かれ、岩波書店の『日本思想体系24 世阿弥 禅竹』と同時に読みすすめた。確かに禅竹の著作は、能の芸術論、技法論というより、理論、哲学、カテゴリー論に力点が置かれているため、能舞台を鑑賞したり謡曲を習ったりということをしていない、謡曲を文芸として享受している層には、世阿弥より魅力的に感じるものであった。
『精霊の王』は特に禅竹の『明宿集』に深く心を動かされた中沢新一が、『翁の発生』などの折口信夫の業績や、近年の神話や民俗学的な研究の成果を咀嚼しながら、柳田国男の『石神問答』の衣鉢を継いで、縄文以前の信仰の対象のおもかげを色濃くとどめる「宿神=シャグジ」の姿に迫るという野心作。『明宿集』は自身で現代語訳して収録しているほどの念の入れよう。世阿弥と比較すると論考の対象として十分の一以下の水準に止まってしまっている禅竹を、現代的に蘇らせようとしている意欲を感じる。「翁」とは「公」の「羽」であるという禅竹の思考のひとつに触れるだけでも、本書は時間を割いて読む価値があるものと私は思う。
性質の違うものを、単一の原理に無理やり従わせて均一にならしてしまうのが「一神教的テクノロジー」のやり方であるとするならば、異質なものの異質性をたもったまま、おたがいの間に適切なインターフェイス=接続様式を見出すというこの列島で発達したやり方は、「多神教的テクノロジー」とよぶことができるかもしれない。
テクノロジーはけっしてひとつではないのである。人間が頭で考えだしたプログラムにしたがって、自然の側を制圧し、変化させてしまおうとするテクノロジーばかりではなく、自然の側からの反応や手応えを受けつつ、人間の行為の側を変化させていくことによって、人間と自然との対称的な関係にもとづく、対話の様式としてつくりだされるテクノロジーというものもある。金春禅竹がはっきりと取り出して見せた宿神のトポロジーは、まさにこのような構造をしている。
(第十章「多神教的テクノロジー」 p256 )
生成の受容者、自然のはたらぎを言祝ぐ者としての翁、宿神。ときに荒ぶる神と成りながらも、超越者としてではなく世界の一端を担う小ささやかそけさや仄暗さを失わないひとつの現れとしての自然神=自然法。人工物にも接続してさまざまな偏光を得させるようにもする見えにくいなにか、感じにくい場のはたらき。人為が届かないものに対する繊細な感性としての翁、その翁が幽かだが偏在しているとする金春禅竹と中沢新一がおのれの身をもって演じる、時空を超えた二人舞。
【付箋箇所】
32, 51, 73, 89, 107, 108, 119, 124, 177, 180, 209, 229, 256, 307, 313, 324, 332, 336, 354
目次:
プロローグ
第一章 謎の宿神
第二章 奇跡の書
第三章 堂々たる胎児
第四章 ユーラシア的精霊
第五章 緑したたる金春禅竹
第六章 後戸に立つ食人王
第七章 『明宿集』の深淵
第八章 埋葬された宿神
第九章 宿神のトポロジー
第十章 多神教的テクノロジー
第十一章 環太平洋的仮説
エピローグ 世界の王
現代語訳『明宿集』
あとがき