金春禅竹という一流の能楽実践者による歌舞論。各曲の姿かたちを、先行する和歌に込められている心と取り合わせるとともにカテゴリー分けして伝えようとしている。『歌舞髄脳記』は、基本的に謡曲一曲につき和歌一首が召喚されることだけが芯にあるシンプルな論考なのだが、呼び出すこと自体がその和歌に対する言祝ぎにもなっていて、禅竹の残した筆と思考の運動のなかで、かつてはじめて詠われたその歌が、発生の時のみずみずしさをまとって、いままた新たに生まれたかのような鮮烈さを放って新たに存在し直している。『歌舞髄脳記』のことばたちは個々の謡曲の内容に分け入って分析していこうとしているわけではなく、どちらかといえば能の曲の風体を発想のもととして編まれた究極の和歌のアンソロジーを作ることに奉仕しているようだ。教養のある者たちにとっては金春禅竹によって『歌舞髄脳記』に引用されている和歌が誰のものであるのか、すぐにわかるほど有名なものに違いないのだが、時代が下った令和の世にあっては、各勅撰和歌集に当たり前のように浸り情緒を身につけるという訓練がされていないものがほとんどであるから、岩波書店の『日本思想体系』のような注なしの扱いでは、歌の作者がわからないという面での居心地の悪さが若干湧いて来る。このノートはその居心地の悪さを埋めるため、ちょっとした注の代わりである。
01.「第一 老体」で取りあげられた曲目とその風体と取り合わせられた歌
カテゴリ:
老体
藤原良房:年経れば齢(よはひ)は老ぬしかはあれど花をし見れば物思ひもなし
曲目ごとの風体とその姿:
老松 妙花風
柿本人麻呂:梅の花それとも見えず久堅の天霧る雪のなべて降れれば
相生松 正華風
(松木の体)
凡河内躬恒:住吉(すみのえ)の松を秋風吹くからに声うち添ふる沖つ白波
(遠白き体)
藤原良経:天の戸を押し明方の雲間より神代の月の影ぞ残れる
西行桜 閑花風
藤原定家:散りまがふ木本(このもと)ながらまどろめば桜にむすぶ春の夜の夢
吉野西行 妙花風
寂蓮法師:立出て妻木をこりし片岡の深き山路と成りにける哉
紀内侍:鶯よなどさは鳴くぞ乳や欲しき小鍋や欲しき母や恋しき.
雲林院 閑花風
(至極体)
源俊頼:日暮るれば逢(あふ)人もなし正木散(ちる)峰の嵐の音ばかりして
「第一 老体」はここまで。
※基本的に『歌舞髄脳記』にある姿のまま歌は写しています。