読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

【モンテーニュの『エセー』つまみぐい】04. 宮下志朗訳『エセー抄』 隠居の思想

最新のエセー全訳のきっかけになった2003年のエセー抄訳。とにかく読みやすさを心がけたという訳文は、訳語の選択やひらがなの分量も現代的な心遣いに溢れている。確かに読みやすい。しかし、モンテーニュは16世紀の人間で、しかもどちらかといえば世から離れて隠居しているような状態で書かれた文章なので、少し古臭くて固めの訳文のほうが(私個人としては)しっくりくるかもしれない。『徒然草』からは250年ほど時代は下って『エセー』は近代的な発想の先駆けにはなっているものの、日本中世の隠棲思想にも繫がるところもありそうなので、時代感覚の差をある程度意識しながら読めるような読みづらさのある文章でもよいような気もしている。

わたしだって、できることならものごとについて、より完璧に理解したいと思いはするものの、ものすごく高い代価を支払ってまで買うつもりはない。私の腹づもりは、この残りの人生を、気持ちよくすごすことにほかならず、苦労してすごすことではない。そのためならば、あたまががんがんしたってかまわないようなものなど、もはやなにもない。学問にしても同じで、どんなに価値があっても、そのためにあくせく苦労するのはごめんこうむりたい。わたしが書物にたいして求めるのは、いわば、まともな暇つぶし(アミユズマン)によって、自分に喜びを与えたいからにほかならない。勉強するにしても、それは、自己認識を扱う学問を、つまりは、りっぱに生きて、りっぱに死ぬことを教えてくれる学問を求めてのことなのだ。
(「さまざまの書物について」 p43-44 )

余裕を感じさせる発想なのは、ボルドーに城と農園を持つ貴族の領主という立場が支えているものであり、また自らは望まなくてもボルドーの市長に選出されてしまう人望が備わっているためでもあるので、容易に同調するのは慎まなければならない。「私の腹づもりは、この残りの人生を、気持ちよくすごすことにほかならず、苦労してすごすことではない」という言葉に同意や憧れを持つことは自由なのだろうが、自分の現状を計ることなく単純に憧れると、叶えられない希望に生活や発想が変形されてしまい、必要以上に苦しまなければならなくことも起こる。隠居の思想を支えるには、隠居を可能にする経済的基盤、思想的強度、出力のパフォーマンスと技術がなければならないだろうと思う。

 

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目次:

読者に

悲しみについて
われわれの幸福は、死後でなければ判断してはならない
一方の得が、他方の損になる
みずからの名声は人に分配しないこと
匂いについて
年齢について
さまざまの書物について
われわれはなにも純粋に味わわない
なにごとにも季節がある

後悔について
経験について

あとがき(2003年5月)

 

ミシェル・ド・モンテーニュ
1553 - 1592

宮下志朗
1947 -