読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

宇佐美斉訳『ランボー全詩集』(ちくま文庫 1996 ) 陶酔と忍耐

京大名誉教授で仏文学者である宇佐美斉のランボーは、先行する訳者、たとえば小林秀雄中原中也などと比較すると、だいぶ穏当な表現になっていて、情動に訴えかけるという面ではすこし物足りないところもあるのだが、フランス近代詩の早熟の天才の感性と令和の日本中年一読者の感性との隔たりを確認するための資料としては、落ち着いた味わいを出している。15歳から20歳の間に詩的言語の絶頂を駆け抜けた人間と、詩的には着火することなくひたすら低徊している人間との距離感の冷え冷えとした感じを嚙みしめることができる。分量的にも申し分なく、500ページに少し欠けるくらいの個性ある言葉の塊がドンと存在している。

ランボーが詩を放棄して以降、アフリカの乾燥地帯で武器商人として生きるというその職業選択の方向性からして、デスクワーク以外に触手の延びない自らの傾向性とは甚だ異なっている、別世界を見ている人という感じが常についてまわるが、年表を見る限り、詩を離れて以降の人生は過酷を窮めていたようだ。それでも詩に戻らなかったのだから、自身が追求した言語表現の方向性に対してよほどの失望感があったに違いない。世界一感動を与え、記憶に深く刻まれることになる詩文を生み出したにもかかわらず、その詩人本人の人生は極めて厳しいものであったように思う。西欧のミューズの恐ろしさなのだろうか。東洋の詩神が西欧とは別にいるのなら、もうすこし慈悲深い者として存在していてほしいものと願いたい。

また見つかった
何が? 永遠
太陽と溶けあった
  海のことさ
(「地獄の季節」p290 )

永遠が陶酔の感覚とすれば、飢餓感は忍耐の感覚につながっているだろう。

ぼくに食い気があるならば
土くれと石ころに対するくらいのもの
いつも食べているのは 空気と
岩と 石炭と そして鉄

ぼくの飢えよ まわれ 飢えよ 食べろ
     音の牧場で
(「地獄の季節」p288 )
     

 

「音の牧場」で「ぼく」が気持ちよく過ごせる時間が出来し、それが持続するようなことになれば、さぞかし幸せだろうと思う。

 

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アルチュール・ランボー
1854 - 1891
宇佐美斉
1942 -