読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

『存在と時間』本篇と関連書籍を読む マルティン・ハイデガーの限界についての個人的感想

フィリップ・ラク―=ラバルトのハイデガー批判書二冊(『政治という虚構』『経験としての詩 ツェランヘルダーリンハイデガー』)を読み、アメリカの大学での展開を記したマイケル・ゲルヴェンの『ハイデッガー存在と時間」註解』を読んだ後、マルティン・ハイデガー自身の『存在と時間』を読み直してみた。ほとんど三〇年近い年月か流れているので、初読といっても過言ではない。

2021/04/29の昭和の日から2021/05/02(日曜日)まで、一日二時間超の風呂場での読書をコアとして、ハイデガーの『存在と時間』と時間を過ごした。こちらは学問的・哲学的には太刀打ちできない丸裸。丸裸を確認しながら風呂桶と風呂蓋の学習環境で、丸腰でハイデガー先生と向き合う。風味付けとしては岡倉天心の『茶の本 THE BOOK OF TEA』。『存在と時間』の主要概念としての「世界=内=存在(in-der-Welt-sein)」は、岡倉天心の『茶の本』第3章の「処世術」の「処世」(being in the world)から取られているということを常に意識しながら読みすすめた。

Chinese historians have always spoken of Taoism as the "art of being in the world," for it deals with the present--ourselves.
シナの歴史家は道教のことを常に「処世術」と呼んでいる、というのは道教は現在を――われら自身を取り扱うものであるから。(『茶の本』村岡博訳 岡倉覚三 村岡博訳 茶の本 茶の本)


影響関係はまぎれもなくあるもののハイデガーのworldと岡倉天心のworldは印象がすこし違う。ハイデガーのworldがより哲学的で理論的あるのに対し、岡倉天心のworldがより社会学的、文化人類学的で、生活に密着している感じはある。

ハイデガーの『存在と時間』の議論の中で、今回私が気になったのはキルケゴールニーチェから大きく影響を受けていると思われる「反復」の概念。人間(現存在)は良心の呼び声を聞き取りながら日々決断することを反復しつつ生きるという回路こそが、今回読んだ限りでは、ハイデガーの一番芯にある発想ではないかと思われた。ただ良心や良心を基礎づける世界については相対化や評価のあり方に言及されてはいないので、極端にいえばナチスの綱領の一部がある世界観の良心の核心と一致してしまうことの不都合・不具合・不誠実については不問に付されている。

強制収容所に対する言及をめぐってフィリップ・ラク―=ラバルトはツェランを引き合いに出しつつハイデガーの思想の不誠実さとその思想の美学的な危うさを説く(『政治という虚構』の「国家ー唯美主義」「摸倣論」や『経験としての詩 ツェランヘルダーリンハイデガー』全般)。しかし、いかに告発しようとハイデガー本人はおそらく変わらない。ドイツ民族の世界史における命運の展開という方向性に関しては誤りを認めることもないであろうし、ドイツ民族の歴史的地位における優位性についても撤回することもありそうもない。それは、『存在と時間』以後、転回を経たといわれる講義録を読みすすめてみた印象でも変わらない。ハイデガーは基本的に変わらない人で反省しない人であり、責められる場面においても防御をあらかじめ仕込んで置いているような人である。ラク―=ラバルトがツェランの絶望を招いたトートナウベルグでの邂逅についていくら語ろうとも、ハイデガーは『存在と時間』の良心と沈黙に関する考察をもって、沈黙で回答していると強弁することも可能な回路を作っている。

ハイデガーツェランの関係性において、ハイデガーに負の光を与えたい場合に有効だと思われるのは、ハイデガーツェランの詩を論じられないという一点に尽きると思う。ヘルダーリンを介して最も近接した言語体験を通過した二人の人物の間で、やはり絶対的な懸隔が発生している。言語に守られる側に進むものと言語に引裂かれる側に落ち込むもの。引裂かれた側の反復をハイデガーはおそらく生きられてはいない。さらにいえば、キルケゴールの反復も、ニーチェ永劫回帰もぎりぎりのところでハイデガーは生きられていないような印象が『存在と時間』を通読した感じでは残る。哲学的にはどうこういえる立場には私はないが、文芸路線での作家としてはハイデガーは、一般読者の立場からすると必死さに欠けているところが有るように思う。学者ではあるが作家ではない。たとえばバタイユは学者ではないかもしれないが、紛うかたなき作家のスタイルを確立した人物だ。大江健三郎もまたそうした作家であり、面倒ごとにしっかり向き合う人物だ。逃げなかった時に何かが起こる可能性があり、不意に起こったことに如何に対処するかを実例で示してくれる有難い存在。物事に対する向き合い方のバリエーションは、いざというとき、決断の腹のくくりがたの参考になる。


筑摩書房 存在と時間 (上) / M・ハイデッガー 著, 細谷 貞雄 著

筑摩書房 存在と時間 (下) / M・ハイデッガー 著, 細谷 貞雄 著

筑摩書房 ハイデッガー『存在と時間』註解 / マイケル・ゲルヴェン 著, 長谷川 西涯 著

政治という虚構 ハイデガー 芸術そして政治 著者:フィリップ・ラクー=ラバルト 翻訳者:浅利誠・大谷尚文 藤原書店

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マルティン・ハイデガー
1889 - 1976
フィリップ・ラクー=ラバルト
1940 - 2007
パウル・ツェラン
1920 - 1970
マイケル・ゲルヴェン
1937 -
細谷貞雄
1920 -
岡倉天心
1863 - 1913