引越しで図書館へのアクセス環境も変わり、自転車10分圏内に3館の公立図書館があるということでひとまず全館に足を向け、棚の並びを実際に見てみた。検索システムではわからない図書館ごとの特徴がいっぺんで分かるのがリアルの世界のいいところ。本の並びもあるが、蔵書全般の劣化具合などもわかってよい。借りる前の心構えというものがその場で成立する。引越し第一週で時間もそれほどなかったので短時間滞在でぱっと目についたものを5冊ずつ借りて帰る。
18~24日に読み終わった本は6冊。うち図書館の本は4冊。引越し前によく利用していた図書館にはないようなものもあり、これから読んでいく楽しみが少し増えた感じもする。
以下、備忘の意味を込めて読後感メモ。何も書かないで読みすすめているとすぐに忘れてしまうので、なんでもよいから書き残しておいたほうが良いというのがブログをはじめて気づいたこと。Google先生の扱いはここ最近冷たいものがあるのだが、それも含めて自分の読書内容の評価たと思って、読み、そして書く。
読み応えあり。斎藤環や松本卓也の入門書や、ラカン本人の講義録もいくつか読んでいるなかで、ラカンの思想と人物の全体像がいちばんつかめたと思えた一冊。ラカンやラカン派の人たちの秘教的というか芸術的とかいうような印象は本書にもある程度あるものの、その基底にある精神構造の数学的理解が全篇にわたって説かれるようになっているので、読後感はすっきりしていて心地よい。
[刊行当初の表紙紹介文]
フロイトを再発見した独自の思想を読み解く対象aは黄金数である――ラカン晩年の言葉を手がかりに辿る構造主義精神分析の本質。√5-1/2という無理数に体現される、主体と言語=他者との関係。フロイト‐ラカン思想の根源に鮮やかに迫る。
黄金数が意味するものは大文字の主体からみられた時の自分自身をあらわす数値。計算式は実際に本文にあたっていただくのがベスト。
象徴界は、比(有理数)であるがゆえに、自分自身の極限値である対象a(無理数)を自分自身にとっての不可能性としてしか内包できない。(第五章「他者になるということ」p202)
自分自身をいうものはいくら突き詰めていっても割り切れない極限のものであるということを語っているのがラカンの思想のひとつの核心であるらしい。そのことを教えてもらって思うのは、割り切れないというのが自分自身であるなら、現実世界ではあまり突き詰めることなく近似値でいいのではということ。近似値としては0.618。まあ無難なバランスの多数のイメージだ。そこに納得いかないとたぶん苦痛が生じてくるのだろう。妥当な自己像の落としどころを教えてもらえたようで、著作の意図とははずれているのかもしれないが、私にとっては有益だった。
目次:
第一章 精神分析のロマネスク
第二章 前夜
第三章 ローマの隅石
第四章 言語という他者
第五章 他者になるということ
第六章 たった一人のパリ
第七章 アガルマを待ちながら
第八章 精神分析の語らい
ジャック・ラカン
1901 - 1981
新宮一成
1950 -
ジークムント・フロイト
1856 - 1939
小林秀雄訳 アラン『精神と情熱に関する八十一章』(原書 1917, 創元社 1926, 1978, 1997)
中原中也を好きだった小林秀雄が若き日に訳したアランの主著。岩波文庫の神谷幹夫訳のアランの著作とは異なる味わいを得られる著作。フランスの近代知性を日本の近代に移植しようとした野心的な仕事であったのだろうと思う。全体としてはしっかりとした生活者としての姿を持ったままの哲学者の意見がまとまられているといった印象。江戸っ子小林秀雄の訳文のフィルターで若々しく歯切れの良い調子になっているけれど、もとは脂ののった壮年期のフランス的エスプリの利いた絶妙な距離感を感じさせる思索。スピノザとオーギュスト・コントに傾倒しているところもよく出ていて、別の訳者(荘園ライブラリ版のあとがきも書いている中村雄二郎)で読めば、またすこし雰囲気の違った味も楽しめると思う。
知覚するとは常に思いうかべることだ。だから、どんな簡単な知覚にも、知覚のうちには、いわば暗黙の記憶がある。僕らの経験の総和がおのおのの経験に集まっている。並木道を目で知覚するとは、その道を、あるいは他の道を通ったことを思い出すことだ。(第一部「感覚による認識」第十二章「記憶」p56)
アランはいいです。気張らなくてもいい哲学。
小林秀雄
1902 - 1983
アラン(エミール=オーギュスト・シャルティエ)
1968 - 1951
スラヴォイ・ジジェク『パンデミック 世界をゆるがした新型コロナウイルス』(原書 2020.04 中林敦子訳 2020.07 )
コロナ禍で行動制限がかかった世界では、各自が十分に引きこもり、共産主義への転換の道筋をよくよく考えるべきだといった主張の、小さな本。「今こそ共産主義革命を!」というのはジジェクの昔からの提言なのでそれほどびっくりはしないものの、去年の四月の時点で早々に新たな発信となる一冊を世に出しているスピード感はかなりすごい。
国家機構は独裁的な権力を蓄えつつあるが、それが政府の基本的な無能さを、なおのことはっきりさせている。
この信頼の崩壊は、人々が国家機構の外で地域的に自己組織化する余地を生むのだが、だからといって、祝福気分になるのは避けるべきだ。職務を遂行し、少なくともある程度は信用できる効率的な国家が、今まで以上に必要とされているからだ。地域コミュニティーの自己組織化は、国家機構や科学との組み合わせがあってこそ機能する。
(「サマラの約束:古いジョークの新しい使い方」p114-115)
ジジェクっぽさがちょっと少ない現実路線の提言になっているようだ。国家や製薬会社の動きばかりが耳目に入ってくるような一年だったが、科学とか学問の動きも地道に遅れ遅れフォローしていくのも必要だろう。移動に使っていた時間のうちの一部は、動かない自由と動かない技術獲得に振り分けてもいいと思っている。
スラヴォイ・ジジェク
1949 -
図書館に行くとかなりの確率で池澤夏樹編集の日本文学全集のなかの石牟礼道子『苦海浄土』の背表紙が目に入ってくる。全780ページ。「読めよ」といわれている声は届いているのだが、心身ともに体力が要りそうな佇まいがあるので、まだ近寄らないことにしている。そのかわり、引越後の近くの図書館で『[完全版]石牟礼道子全詩集』と題された一冊に出会ったので、様子見として手に取ってみた。こちらは水俣病等の社会派系の主題は目立たず、神経を病んだ祖母に育てられたことの影響があるのだろうか、人間の妖しさ、情念をうまく振るい立たせているような詩句が目を引く。書き方も、方言、古文、物語詩など、日本の近代詩の枠からはみ出すようなものが数多く含まれていて、読み手の心をざわつかせる。全百十七篇、四四四頁。詩人としてもしっかりと存在感のある人の作品であった。初読の新鮮な印象もあってか1960年代までの作品が特に好ましく映った。
からだの赤い糸をほぐそう
空がゆっくりそれをひきとるから
さみしいめまいがやってきた
(「虹」部分 一九五五年九月)
石牟礼道子
1927 - 2018
冨田恭彦『詩としての哲学 ニーチェ・ハイデッガー・ローティ』(講談社選書メチエ 2020)
冨田恭彦のローティ愛に触れられる一冊。
ローティが説こうとしているのは、「詩としての哲学」という哲学のあり方である。それ自体として定まったなにかの、あるがままの姿に接近するものとしての哲学ではなくて、新たな捉え方、新たな考え方、新たな価値づけを生み出すものとしての哲学である。
(第2章「エマソンとニーチェ」p41-42)
科学とおなじように仮説から現象を新たに解釈する方法を生み出していく哲学を体現しているところのリチャード・ローティにいたる系譜を描き出す。エマソン-ニーチェのラインの強調とか、趣味が合うのですらすら読めた。
目次:
第1章 プラトンとの決別
第2章 エマソンとニーチェ
第3章 ハイデッガー の二面性
第4章 プラトン的真理観は、どうして機能しないのか
第5章 原型的経験論に対する二つの誤解
第6章 デカルト
第7章 カント
第8章 詩としての哲学
冨田恭彦
1952 -
リチャード・ローティ
1931 - 2007
柏倉康夫訳ステファヌ・マラルメ『詩集』(原書 1899, 月曜社版訳書 2018)
「理解可能なマラルメ」というコンセプトで訳されたマラルメ。確かに意味がとりやすい訳文で、一読の価値あり。
欧文の詩は、本来、耳で聞いて味わうものである。意味の伝達を主眼とする散文はさておき、フランス語の詩を日本語に移すことにどんな意味があるのか。翻訳するたびに、後ろめたさにつきまとわれてきた。(「訳者あとがき」p169)
後めたさを共有しつつ読む。母国語以外の人には結局わからないよね、というところを理解しながらも敢えて読む。読まなければはじまりもしない。後ろめたさという感情も、わからないことがあるということもわからないよりはわかったほうが少しよい。
柏倉康夫
1939 -
ステファヌ・マラルメ
1842 - 1898