読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

ウェルギリウス『牧歌・農耕詩』(河津千代訳 未来社 1981)

アエネーイス』のほかでウェルギリウス(B.C.70 - B.C.19)の代表作とされる二作の日本語訳。訳者である河津千代は本来は児童文学作家で、著作『詩人と皇帝』(アリス館 1975 未読)で初代皇帝アウグストゥスオクタヴィアヌスと詩人ウェルギリウスとの関係性を描いたのちに、より深くウェルギリウスに関心を持つようになったことで、当時日本語訳で読むことの難しかった『牧歌』『農耕詩』の二篇を自ら訳すこととなった。2021年現在は学究による訳書もあるようで(小川正廣訳 京都大学学術出版会 2004)、簡単に手に入るのであれば最新の研究成果も盛り込まれているであろう最新訳を読むのが無難な選択なのであろうが、ウェルギリウスの専門家ではない河津千代の手になる翻訳書は、本文の味わいもなかなかよく、訳注や時代考察、解説なども学問的に成立するようなレベルの香りがあり、読書中の感覚としては「立派だ」という思いが持続的に湧いて来ていた。ホメロスという名のもとに、集団的かつ年代的な著述家の成果の集積として残された『オデュッセイア』『イーリアス』とは違い、作家ウェルギリウス個人の作品として成立していることの意味合いや佇まいを伝えてくれてもいて、古典に接する際に配慮し検討すべき事象にも目配りが行届いていることがありがたい。なにより一般読者層レベルで感知できるような記述のしかたになっていることが、とても心地よい。

 

古代人の観念では、いかなる美も賛美されなければ完全ではなく、いかなる事績も詩にうたわなければ忘れ去られ消滅するものであった。詩こそが、比類なき美、偉大なる名と事績を不滅にするのである。だからこそ、すべての詩人たちは、あくまでも言葉を信頼してすぐれた作品を書こうとした。詩人にとっては幸福な時代であったと言えよう。

(「ウェルギリウスの生涯」p35 )

 

訳者の河津千代の文章によってもたらされる知見も有益だが、なにより2千年前のウェルギリウスの詩を、日本語ではあるが意味内容に関しては直接味わえることができることがありがたい。『アエネーイス』では神々に近い人物たちの戦闘と祝祭が主として描かれているのに対し、『牧歌』『農耕詩』ではローマの市民階級の生活とその感情が描かれているので、感覚的にはわれわれ現代人に地続きの部分が多いようだ。叙述のしかたも『アエネーイス』の様式美に向かうような方向性とは違った現実的な描写が多く、古典美とロマン的な狭間を生きた作家のダイナミズムに触れることもできる。(これは、こののちヘーゲルの『美学講義』を読みすすめている途中でこの文章を書いたために明確化できた感想。ペトラルカの恋愛詩篇とともに『美学講義』を読む前に読んでおいてよかったと思わせてくれたありがたい一冊となった)。

 

種蒔きのあと、身をかがめ、痩せた砂地の畝を均らし、

川から水路をひく人について、何をいう必要があろう?

畑土がやけ、穀物の葉が枯れかけたとき、

見よ、彼は丘の端から水をひき入れる。すると、

水は滑らかな石の上を、しわがれ声で咳きながら流れ下り、

渇きにあえいでいる畑をほどよく冷やす。

(『農耕詩』第一巻「穀物」105-110行 )

 

よく見て、よく思索し、よく書いたと思わせる、憧れの対象となる過不足ない詩文。

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ウェルギリウス

B.C.70 - B.C.19

河津千代

1935 -