読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

【日本近代の代表的詩人 三人三冊】堀口大學『消えがての虹』(1978, 86歳)、西脇順三郎『人類』(1979, 85歳)、『村山槐多詩集』(彌生書房 1974, 1919 享年24) 同年代生まれの八〇台の詩人と二〇台詩人を同時に読む。

他言語に訳されて日本の20世紀詩人にこういった人がいましたよと読んでもらいたいところまではいかないけれども、日本人であるならばちょっとは気にしておいてもいい詩人三名の三冊。

 

堀口大學は1925年出版の訳詩集『月下の一群』が何より重要。この訳詩集で近代フランス詩の魅力に引きずり込まれて人生狂ってっしまった人が沢山いただろうと思わずにはいられない。今はそんな訳詩集なんて無いから、うらやましいといえばうらやましい時代であったのだろう。ただ、その時代は今にくらべてとても貧しいし、国家間で戦うことが純粋に勇ましいことと思えていた風潮も、今から考えれば耐え難い窮屈さがありそうだ。多くは母恋の歌のなか、80台になって過去を思い返し、生活の資となる訳業を控え「かすみを食らって生きるが運命の、詩生の本然に立ちかえり」綴った作品の中に、以下のことばが見られるのは、かなり重くて貴重な伝言であるだろう。

生れるとすぐ 日清戦争
育ちざかりが 日露戦争

勝った 勝ったで兜の緒
締めてかかれば 心は狭い

国のためなら命も捨てる
うそのようだが 本当の話

そんな気持ちに僕まで成れた
うそのようだが 本気で成った

(「僕と明治」部分)

(小沢書店 1978, 86歳)

 

正直な回想が記憶に残り、何かしら抵抗を思いはじめるときのひとつの足場となってくれる。

萩原朔太郎の『月に吠える』が日本近代詩のはじめに位置し、西脇順三郎の『Ambarvalia あむばるわりあ』が現代口語詩のはじまりにあるといわれるほど重要な詩人。彼の詩作は、一般的な日本の評価枠を超えていて、何とも言えない味わいがある。「諧謔」を良しとする詩作の姿勢は、日本伝統(江戸伝統)の諧謔精神を引き継いでいるか否かの考証も含め、後世の読者に問いを投げかけている。深刻な詩ばかりでない詩の在りかたを示してくれたことは、後世の詩人にとっては大変貴重であるかもしれない。

最高の美は最高のカイギャクで
カイギャクでないものをカイギャクと
思念することは最高のカイギャクだ
まだそういうことにならない
予言に雪がふりつもつている
おもとの赤い実は現われていた
それはときならぬ神託の超自然の
美のカイギャクであった
(「パイ」部分)

筑摩書房 1979, 85歳)

ギリシャは風味付けで、芯にあるのは老荘のような印象もある。


村山槐多はどちらかといえば画家の業績のほうが有名。『尿する裸僧』など、日本的なフォーブの作品で良く取り上げられている。伝記的な記述を読んでみると、画のモデルに対するストーカーまがいの恋慕の情など、現代的な感覚からすれば到底容認できない激情に身を任せていたけれども、時代といえば時代の精神を体現していて、後世の者には貴重な体験談であるのかもしれない。絵でも詩でも時代にあわせて変奏できれば村山槐多を読んだり見たりする意味もあるだろうか。文字表現においては最も美的に昇華されている物語詩のようなジャンルが、人気もおもしろさもあるだろうか。「美少年サライノの首」とかは、ネットの検索でもよくヒットしている。私個人は絵を描くときのパッションにも通じているような詩のことばのほうが好きではあるが・・・

命はかすれながらつづく
それは色のけむりだ

それは薄いひくい紫の色階だ
それは消え去るもので
しょせんは一まばたきのまぼろし

その薄いけむりはつづく
その命にささへられて肉体は立つ

ピストルを打つの様に光をうつ
日の強さ

それを幽かにかすめて
薄い紫がつづく。
(「命」部分)

(彌生書房 1974,)

 

見えてしまった強烈な色彩と形態には、とりえず身を委ねるほかはない。が、それに取り込まれるがまま、翻弄されるがままだと、身は持たぬ。それでもいいのか、それがいいのか、それと格闘しつづけるのか、人や時代や状況によっていろいろ変わる。

 


堀口大學
1892 - 1981
西脇順三郎
1894 - 1982
村山槐多
1896 - 1919