読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

【4連休なのでユリシーズと美学の本を読んでみる】03 連休4日目、緊急対応案件発生で余暇強制終了(16:00)で、美学系の読書が中途半端で終わる

16時前、思わぬ架電。出て見るとクレームの通知。身に覚えはないが、自分自身以外の共同行動者の振舞いを考えてみると該当者と問題行動がほんのり浮かび上がってくる。確認のため、こちらから連絡。先方の守秘義務以外の苦情に関わる情報をなるべくお聞かせいただくようにして、当方の不備行動候補と照らし合わせる。最初は苦情に思い当たる節はなかったため、言いがかりではないかという思いもあったが、見落としていた部分を当てはめてみると、みごと合致。対応策をご提案の上、まずは事象解消されるかどうかしばし猶予期間をいただく。とりあえず、鎮火の方向に向かっている感触はあるが、この先どうなることやら。怒りの主は私ではなく、本来的な責任主体も私ではないため、事態の推移を見守りつつコントロールするほかはない。

20時30分、本日できるかぎりの対応完了。

もう、連休モードには戻れないと悟ったため、飲酒。パノフスキーの『イデア 美と芸術の理論のために』の途中で、とりあえずの錨を降ろす。

本日分読書:

 

1.
at 風呂 with 音楽 by STEVE REICH / "SEXTET・SIX MARIMBAS"(1985あたり)×2周 = 約90分
アレクサンダー・ゴットフリーブ・バウムガルテン『美学』(第二巻第二十二節「崇高に対立した諸欠点」§316まで )
※大作『ユリシーズ』読了後の、何を考えても『ユリシーズ』の各場面が頭に浮かんでしまう状況を、風呂の湯のあたたかさとともに、ゆんわりと解きほぐし、俗なる現実世界にじんわり引き戻してくれた作品。熱くはあるのだが、時代が過ぎてしまった後のやるせなさのようなものとともに文章を味わうと、また別格。「余白」「教養」?、にしてもよいのだろうかと思いつつ、誰かが読みつなぐことなしに何も繋がらないと思い一般市民も読む。バウムガルテン『美学』。

 

2.
小田部胤久『西洋美学史』(東京大学出版会 2009)読了。
大学の教養部で10代最後の季節をこの方の授業と共に過ごしたら人生ちがっていたかもしれないと思わせてくれる稀な一冊。

目次はこう。
第一章 知識と芸術――プラトン
第二章 芸術と真理――アリストテレス
第三章 内的形相――プロティノス
第四章 期待と記憶――アウグスティヌス
第五章 制作と創造――トマス・アクィナス
第六章 含蓄のある表象――ライプニッツ
第七章 方法と機知――ヴィーコ
第八章 模倣と独創性――ヤング
第九章 趣味の基準――ヒューム
第一〇章 詩画比較論――レッシング
第一一章 自然と芸術I――カント
第一二章 遊戯と芸術――シラー
第一三章 批評と作者――シュレーゲル
第一四章 自然と芸術II――シェリング
第一五章 芸術の終焉I――ヘーゲル
第一六章 形式主義――ハンスリック
第一七章 不気味なもの――ハイデガー
第一八章 芸術の終焉II――ダントー


一般的高卒レベルでは太刀打ちできないラインナップ。
焦らず焦って知を吸収させてあげる時間を確保してあげるのが教師のひとつの役割かと、学問の近傍に佇む傍観者は(税金はかなり払って協力はしているんだけどなと思いながら)無言で観察する。
かりに、私が新卒の大学の教養学部生で、この小田部胤久教授の美学の授業に触れたとしたら、ちゃんとドイツ語と大陸哲学を教えてくれる文学部哲学科を専攻して勉学に励んで、いまでも美学の優れた教科書として大事に扱ったに違いない。
私の実際は、自由研究学科でロシアフォルマリズムに触れつつ批評理論を独学。そして、その独学ゆえにプロフェッショナルな世界では通用しないという学問の厳しさを、時間をかけてじんわり間接的に知るという、20数年をかけて生殺し的な自業自得の着地点をなんとなく知りなんとなく受け入れるという、曖昧な着地点に遭遇し、言葉を失い、且つ、言葉が出るかもしれない何かの直前に向きあうという、なんともやりきれないところに住まう。
※小田部胤久『西洋美学史』は、各章毎の記述ももちろん素晴らしいが、簡潔明快な美的概念の図示が秀逸(全部引用したいくらいだが、それは著作権上無理)。覚えておきたい各時代各立場の信念が、図示によって示されるのは非常に効率的。副次的な思考の歩みさえ、無理なく補助してくれている。名著。

 

3.
エルヴィン・パノフスキーイデア 美と芸術の理論のために』(原書 1960, 平凡社ライブラリー 2004)

www.heibonsha.co.jp

架電による中断にあったのは第四章「マニエリスム」の途中。
その章までで、特に興味深かったのは第一章「古代」のうち「プロティノス」の章の記述。

プロティノスの考え方によれば、「ヌース」は自分自身から、そして自分自身のうちにイデアを生みだす。「ヌース」は「流出」することで、自らの純粋で非物体的思惟を空間世界のなかに注ぎ入れなくてはならず、その空間世界のなかで形相と質量は分離し合い、根源的像の純粋さと一性は失われてしまう。
(エルヴィン・パノフスキーイデア 美と芸術の理論のために』第一章「古代」p47 )

個人的な放言の部類としてメモしておきたいところは、
プロティノスの「ヌース」とヘーゲルの「絶対精神」はなんだか似ている
ということ。

根源の「ヌース」あるいは「絶対精神」から質料が出て来るというような、神秘主義にも現代物理学の場の理論にも通じるロジックは、質量の起源というところに眼を向ける宇宙論的な眼差しの方向性が感知できるので、取りつく島がある。対してスピノザの自然即神の宇宙では、属性としての精神と延長は語られるものの、延長(=物質)の始源には興味が向かず、現状の読解には過不足はないが、起源についての記述は欠落していたように思う。神即自然は無限の実体で、無限だから起源なんてあるかよと言われればまことに御尤もと私は折れるが、他の方はどうなのか分らん。

ちなみにジョイスの『ユリシーズ』の主人公のレオポルド・ブルームの語りに出て来る哲学者の筆頭は、バルーフ・デ・スピノザ。自宅の書棚に収まっている著作にも「スピノザ哲学抄」が見える(第17章「イタケー」)。起源でも目的でもなく、いまここの文体、様相にこそ興味を持つというジョイスの性向にかなり親和性のある哲学者なのだろう。バルーフ・デ・スピノザ

 

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