読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

中島隆博『ヒューマニティーズ 哲学』(岩波書店 2009 )

中島隆博は千葉雅也の師であり松浦寿輝の弟子の位置にいる変わった感じの優秀な哲学者。東洋哲学、特に中国哲学を専門としている。老子ヘーゲルの組み合わせに憩っている感じのある2021年夏の私には、荘子ドゥルーズという組み合せや、孔子ドゥルーズという組み合せから思考を動かそうとする中島隆博はまぶしく且つ恐ろしい。怒られそうなピりついた気配がある。一享受者として著作から適度に刺激をいただいている分にはたいへん気持ちがいいのだが、もし、万が一対面して話をうかがうような機会があったとしたら、学知の力で刺し貫かれてしまいそうな恐さがある。私の好きな空海紀貫之なども論じている『思想としての言語』(岩波書店 2017)にしても、折からの蔵書棚卸の再読の途中で、ああこれは本気で勉強すると時間がかかるということを感じて、2章まででサスペンドしている状態になっている。空海をゆっくりじっくり読み返すとなると、空海に向けてコンディションを整える必要があるので、自然な流れに逆らって読書選択対象を強引に変えてしまうのは難しい。でも、中島隆博という人物は気になる存在ではあるので、手ごろな書籍があればひょいと飛びつく。岩波書店のシリーズ「ヒューマニティーズ」は各分野の最新の人文学的知の世界を紹介する一冊120ページ程度の圧縮された導入書。新進気鋭の執筆者が問いかけ語る密度の濃い書作群になっているようだ。中島隆博『ヒューマニティーズ 哲学』は、45歳の時の仕事となる。著作の中ではドゥルーズやサイードを引き合いに出して、蓄積とともに猛々しさを併せ持つことのある「晩年性」という概念について紹介をしたりしているのだが、勢いのある脂ののった壮年期の清々しさのなかで「晩年性」について無理なく取り組んでいるところなど大変興味深い。

哲学は概念を定義することによって、過去を救済し、事物を救済し、新たな社会的・政治的な共生の空間を発明する実践である。
(四「哲学の未来──哲学は今後何を問うべきなのか」p85)

言葉をつくりあげ、ともに語らい、意味のひろがりを体験することで救済昇華させてあげるという方向性を指ししめしてくれている。「事物を救済し」というところは、語りの流れをなしにしてしまうと分かりづらいところで、第二章のベンヤミンの翻訳論の論述を引き継いでいる。

ベンヤミンは、「言語一般および人間の言語について(1916年)において、万物が言語に関与しているとした上で、人間独自の働きは事物に名を与えることによって、「事物の言語を人間の言語へ翻訳すること」だと考えた。つまり、翻訳とは、事物に名を与えることで、自らを伝達しようとする事物の声なき声を聞き取ることだというのである。
(二「哲学と翻訳そして救済──哲学を学ぶ意味とは何か」p40 太字は実際は傍点)

スピノザの「すべての個体は、程度の差こそあれ、精神を有しているのである」(『エチカ』第二部、定理一三・備考)」というところの先の、種類を異にする複数個体間の交流の話になっているようで、とても印象深く読んだ。

www.iwanami.co.jp

【付箋箇所】
7, 10, 53, 55, 61, 80, 82, 85, 89

目次:
はじめに
一、哲学はどのように生まれたのか
二、哲学と翻訳そして救済──哲学を学ぶ意味とは何か
三、哲学と政治──哲学は社会の役に立つのか
四、哲学の未来──哲学は今後何を問うべきなのか
五、哲学を実践するために何を読むべきか
おわりに

中島隆博
1964 -

参考:

uho360.hatenablog.com