読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

エルヴィン・パノフスキー『イデア 美と芸術の理論のために』(原書 1960, 平凡社ライブラリー 2004)

美学におけるイデアの位置と神学における神の位置の歴史的な並行性を感じさせてくれた作品。パノフスキーの『イデア』は美と芸術の側のイデアの位置の描出をしているだけで、神学側の神の位置の歴史的変遷を語っているわけではないのだが、私がよく読ませていただいている作家佐藤優氏のキリスト教プロテスタント系)の宗教・神学系著作に叙述される次のような変遷に並行性を感じた次第。
佐藤氏の語るキリスト教的な神の位置の遷移は以下のようなものである・
はじめは別世界たる天上界にいたものが、無限を視野いれた宇宙論的考察を経て、科学を突端とする知的展開の進展にともない天上界が事実上消失し、その後、シュライエルマッハーが神の場所を人間の内面に位置づけた。さらにその後、人間の内面や精神を自らが蹂躙するような事態に到ってしまった両大戦間(特に第一次世界大戦)による啓蒙主義への信仰破綻により、もう一度、神を超越的な世界に措定しての思考を切り開き始めたカール・バルトが重要視されている。(佐藤氏本人の言説では、バルトに対しては私生活を含めた行動全体に対して批判的な言辞が比較的多く見られ、全面的に推しているわけではないことが感得できる。佐藤氏が推すのはライフワークの対象でもあるヨセフ・ルクル・フロマートカの実践で、この世におけるキリスト的実践展開の重要性である)。

このキリスト教的な神の位置の変遷に並行性を感じた美と芸術におけるイデアの位置の変遷、それに関してパノフスキーが何回も繰り返し語っているうちでひとつあげるとすればこちら。

プラトンの見解では、イデアはあらゆる点で絶対的存在とされていたが、アウグスティヌスにまでいたり着く一連の展開のなかで、イデアはまず最初にはまず最初には創造的な世界精神の内容へ、そして最後には、人格神の思惟へと変容していった。すなわち、最初は超越論的哲学的な意義をもっていたイデアが、まず最初には、すでにプラトン自身によって用意されていたとはいえ、宇宙論なものへと変わり、最後には神学的なものへと変わっていったのである。
(2「中世」神学的概念としてのイデア p62 太字は実際は傍点)

この記述はキリスト教以前の哲学からキリスト教神学の立場への移行を示している部分で、更に近代ルネサンス期まで時代が進むとイデアは更に人間の経験的世界での「派生物」にまで地位が変わってくることが示される。

イデアはもはや経験に先立つという意味で、芸術家の精神のなかにア・プリオリにあるのではなく、むしろ経験に基づいて生みだされたという意味で、経験そのものからア・ポステオリに出てくる。それゆえ一方では、イデアはもはや感覚によって捉えられる現実の競争相手でもなければ、ましてや原像でもなく、むしろその派生物となり、他方では、もはや人間の認識の所与の内容でもなければ、ましてやその超越論的対象でもなく、むしろ人間の産物となるのである。
(3「ルネサンスヴァザーリ p94 太字は実際は傍点)

ヴァザーリ(1511~1574)はイタリアルネサンスマニエリスム期の人文主義時代の人、それに対しシュライエルマッハー(1768~1834)は、だいぶ時代を下って近代自由主義神学ドイツ観念論の時代の人だが、超越的なものに対する見方は驚くほど近いものがある。人間の主観に超越的なものが宿るもしくは出来するということで、絶対的に超越的かつ外部的な価値は消失している。その後の歴史的危機状況にあって、神学ではカール・バルトによる超越者の再興が思考されたというのが佐藤優氏の神学解説なのであるが、近代の啓蒙主義危機以降の美術の歩みは神学とは異なる方向にすすむ。中心へ向かう動きではなく、周辺あるいは基底といった限界領域の吟味に向かう。印象派からはじまりレディーメイドのデュシャンを経てポップアートウォーホールも超えてとめどもなく広域を探索することになる現代アートの創作と鑑賞の探究の世界。神学ではまだア・プリオリになにか信仰可能なものがあってそれに向かっているように(外部世界の者からは)思われるのだが、芸術の世界では信仰可能なのものは過去からの技術の蓄積はあるものの、絶対的な何かは芸術家個人の内的必然性以外には見出せないような時代状況になっていると思う。

本書は主に芸術作品とくに絵画作品を扱ってる論考であるが、各時代における意識的無意識的思考の変遷を明晰化してくれている点でほかの分野にも応用可能になる優れた論考であると思う。

ただ、パノフスキーの著作の特徴として、本文に対する註が驚くほど多い。これは、通読という観点からはすこし難物である。初読で意味を取ることを優先する場合、どうしても本文上に収まりきらない註記は鑑賞にとっては邪魔になる。本文読解途中で注釈に目を通すとなるとどうしても勢いがそがれる。重要な情報であっても適度な本文と注記の分量配分でないと、一回では消化しきれないということになってしまう。私は、とりあえず初読なので、注記の完読は断念して、今回は本文優先で読み通すことを選択した。他のパノフスキーの作品(例えば『象徴形式としての遠近法』)も同様の傾向があるので、一通り主要作品に目を通させていただいてから、注記を含めて、もう一度チェレンジしたいと思う。

 

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【付箋箇所】
24, 39, 47, 55, 60, 62, 76, 89, 91, s94, 103, 116, 120, 196, 176, s191, 397, 402

目次:
1 古代
2 中世
3 ルネサンス
4 マニエリスム
5 古典主義
6 ミケランジェロデューラー

 


エルヴィン・パノフスキー
1892 - 1968
伊藤博
1955 -
富松保文
1960 -