読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

中島真也『大伴旅人』(2012年 コレクション日本歌人選 041)

大伴旅人(665 -731)は万葉集を読んだときにいちばん好きかもしれないとおもった歌人。本書の付録エッセイを書いた『折々の歌』の大岡信大伴旅人がいちばん好きらしい。この大伴旅人を父に大伴郎女を叔母に持つのが万葉集編者たる大伴家持であるが、より本来的歌人であるのは両親のほうであるように感じている。旅人や大伴郎女にある歌の伸びやかさが家持からはあまり感じることがない気がしている。気質の問題、時代状況や立場の問題なども関係しているのだろうが、考えるよりも感じることのより多い父や叔母の歌と、家持のどちらかといえば硬質で配慮先行の歌を比べると、歌そのものの性質のちがいが浮かんでくる。私性と公共性、家庭と氏族との歌題の向かう先のちがい。重点が私と公のどちらにあるかのちがいで歌の味わいも歌人としての評価もちがってくる。大伴氏の歴運を日本の歴運と重ね合わせた保田與重郎の『万葉集の精神』には全く乗れなかったけれども、家持ではなく旅人ベースで日本を見る大思想家も出てきてもいいんじゃないかなと、すこし期待を込めつつおもったりした。

万葉集に収録された作品は万葉仮名(漢字)で記載されている。ひらがなカタカナのできる以前の漢字にすべてを頼っていた書字空間での日本的な音声を軸とした表現空間。本来、研究者以外では容易に近づきえぬ表現の空間ではあるのだけれども、現代的表記に変換され鑑賞可能となっていることは、一般読者としては本来驚くべきことに属すると思う。絶対的に環境の異なる過去の詩人の詩に心動かされるということ自体はよろこばしいことであるとおもう反面、立ち位置のちがいにもすこし気を使う必要がありそうにも思う。かたや平安貴族の高級官僚、かたや令和日本の没落ぎみ先進国労働者層。そんな簡単に共感してはいけないとおもいつつ、やはり通じるところは通じると、感動しつつ受容させていただいている。

 

橘の花散る里のほととぎす片恋しつつ鳴く日しそ多き
世の中は空しきものと知る時しいよよますます悲しかりけり
賢(さか)しみと物言ふよりは酒飲みて酔哭するしまさりたるし
世の中の遊びの道にすずしきは酔泣するにあるべかるらし
今世(このよ)にし楽しくあらば来世(こむよ)には虫に鳥にも吾はなりなむ
京師(みやこ)なる荒れたる家にひとり寝ば旅に益(まさ)りて苦しかるべし

 

旅人の作品で現在にまで伝わっているものは万葉集に採られた60歳から67歳までの7年間の作品。60歳になって突然いい歌が詠めたなどということは一般的には考えづらく、おそらく複数存在したであろう60歳以前の作品も残されていればよかったとおもうのだが、そのへんの家持の万葉集編集の実際についても、現代の研究者の何かしらの意見を聞いてみたいとおもった。

※本書の鑑賞は学術的というよりも評者の鑑賞観を強めに出したエッセイ風の文章。旅人に関する資料の少なさが言外に感じとれる。

 

shop.kasamashoin.jp

 

大伴旅人
665 -731
中島真也
1973 -

 

 参考:

uho360.hatenablog.com

uho360.hatenablog.com