読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

エルンスト・カッシーラー『十八世紀の精神 ルソーとカントそしてゲーテ』(原書 1945, 英訳 1962, 思索社 原好男訳 1989)

十八世紀の啓蒙主義期における大人物、ルソーとカント、ゲーテとカント、一般的には資質や思索の方向性にあまり類似が見られない著述家のカップリングに深く交流している部分があることを浮かび上がらせるふたつのエッセイ。ルソーとカントでは意志と自由に向けるまなざしが、ゲーテとカントでは人間の有限性に向けるまなざしの類似性が、ふたりの間にある差異とともに語られている。ルソーやゲーテとのいちばんの違いは、カントの突出した厳格さ、あるいは揺るぎなさにあるように感じた。

カントにとって、快楽論の放棄は最終的にルソーの思想の一側面を切り捨てることである。《黄金時代》の妄想、田園的なアルカディアの牧歌は消えてしまった。人間は苦痛を逃れることはできないし、逃れるべきではない。なぜなら、苦痛は活動への拍車であり、「そのなかで初めてわれわれは生命を感じ、苦痛がなければ、われわれは生気のない状態におちこんでしまうだろう」。(中略)「力の対立がなくては、人類におけるあらゆるすぐれた自然の傾向は永久に眠ったままで、発展しないだろう。人間は協和を望むが、自然は、人類にとって何が役立つかをよりよく知っていて、不和を望むのである。人間は楽に豊かに生活しようと望むが、自然は人間を無為と受動的な満足から、苦労と労働へと追い立てるのである」。
(「カントとルソー」楽観論の問題 p74 )

カントの引用はともに『人間学』からのもの。ヘーゲルの歴史哲学とも似ている考えだが、カントの文体の硬さともあいまって、非情さのようなものも感じる。あまり間をおかずに読んだアドルノの『否定弁証法』では、カントとヘーゲルの到達点のある世界像が批判吟味されていて、その批判のひとつに個人に対しての過酷さというのがあって、その指摘には共感したが、アドルノにしても安楽快適な生活を単純に信仰するのは資本主義的世界側から作りあげられた幻想に乗っているに過ぎないとも批判しているのだからなかなか複雑。批判対象としてヘーゲルとカントも取り上げられているのも無視できない重要な思索家であるからで、その良いと指摘されている部分を自分で咀嚼して定着していくのも結構大変。最近は翻訳哲学書をすこし読み慣れてきたこともあって、けっこうおもしろいのが救い。カッシーラー含めて独自性のある哲学者の思考を追うことで世界を見る眼にすこしづつ体力がついたと感じるのも精神衛生的にはよい。

※連休おわりの今日は、近くの道路から救急車のサイレン音がかなり頻繁に聞えてきたような気がする。不穏。

【付箋箇所】
25, 35, 50, 55, 62, 73, 74, 95, 119, 125, 137, 139, 142

目次:

序 ピーター・ゲイ

カントとルソー
 個人的影響
 ルソーと人間の本性の原理
 法と国家
 楽観論の問題
 「単なる理性の限界内での宗教」
 結論

ゲーテとカント哲学

 

エルンスト・カッシーラー
1874 -1945
ピーター・ゲイ
1923 - 2015
原好男
1940 -

 

参考:

uho360.hatenablog.com