読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

ジャン=ピエール・リシャール『ロラン・バルト 最後の風景』(原書 2006, 水声社 2010) マナとしての語

蓮實重彦が敬愛するテマティスム批評(テーマ批評)の雄ジャン=ピエール・リシャールが語るロラン・バルト。批評の対象となる作家や作品を慈しむことにおいて並び立つリシャールとバルトの共演は、とてもすてきだ。「傑作とはまさに、あらゆる風とあらゆる偶然に開かれた作品であり、あらゆる方向に駈けぬけることができる作品のことだ」という『詩と深さ』のまえがきの文章を訳者堀千晶が巻末エッセイで引いてリシャール自身の作品をたたえているとおり、リシャールはバルトの軽やかな傑作群を変奏しながら新たな風を作品に吹きこんでバルトのことばをよりいっそう輝かせている。
たとえば、画家サイ・トゥオンブリから写真家ダニエル・ブディネという流れでバルトの批評のことばを称揚している以下の文章をご覧いただきたい。

人はそこで、慎み深いが偏在的な開口部による外部の呼びかけ(「裂け目」)あるいは、内部の現前(浸透性、多孔性)をかなりすぐに感じる。この開口部はそこに、窒息の危険を祓いに、というかこう言ってよければ、より主題論的でない仕方でラカンが見事に言い表わしたあの「欠如の欠如」の不安を祓いにやって来るのだ。われわれはしたがって、「葉叢の素材(マチエール)」という繊細な織物において、R・Bによるなら「密生していると同時に軽やかで、無秩序であると同時に中心化されている物質」を享受するのである。「これら垂直に生い茂る葉は、空気もなく、大空もなく、説明しない仕方で、私を呼吸させてくれる。それは私の魂を育む(三十年前にに言われていたかもしれないように、魂とはしかし、つねに身体なのだ)、けれども、私は大地の暗闇のなかへと沈み込んで行きたくもあった。要するに、様々な強度の波状模様(モアレ)なのである」。マナとしての語が、ここに見出されたとしても驚くにはあたらないだろう。
(「描線、叢生」p39-40 太字は実際は斜点 )

 

リシャールとバルトのことばが混然一体となって寄せてくる香気あふれる文のかたまり。魂と身体を育む「マナとしての語」。霞をたべて生きるのではなく、こんな「マナとしての語」をたべて生きる仙人になれるのであれば、それはとても理想的だ。

なお、訳者堀千晶は「個体性」をめぐってバルトとドゥルーズの類似を取り上げていて感心したのだけれど、先日読んだドゥルーズガタリの『千のプラトー』との比較でいえば、バルトの波状模様(モアレ)とドゥルーズガタリの「渦巻状組織」「渦巻モデル」(12章「遊牧論あるいは戦争機械」)もなんとなく似ているような気がした。傑作どうしの作品間で類似性を自分なりに感じて見つけるというのもなかなか味わい深い。

ドゥルーズガタリの『千のプラトー』もそうだったが、目次を見るだけでも楽しいというのもすてきだ。「恵み深き空虚の化学」「感覚の生きている草」だってさ。

 

blog 水声社 » Blog Archive » 12月の新刊『ロラン・バルト 最後の風景』

【付箋箇所】
39, 63, 95, 140, 142, 146, 160, 162, 168, 172, 192


目次:

隠喩
粘つくもの
モアレ
力強さから微妙な差異へ
きらめくもの
混交したもの
艶消し
パランプセスト
描線、叢生
園芸

ぴんと来る
雰囲気、憐れみ
襞、削り屑
三つの姿勢
固まる
マヨネーズ
嫌悪への嗜好


恵み深き空虚の化学

ニュアンス、ふたたび
感覚の生きている草
俳句
アルキュオネの飛翔


ジャン=ピエール・リシャール
1922 - 2019
ロラン・バルト
1915 - 1980
芳川泰久
1951 -
堀千晶
1981 -

参考:

uho360.hatenablog.com

uho360.hatenablog.com