読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

廣末保『芭蕉 俳諧の精神と方法』(平凡社ライブラリー 1980)


一冊の本を読むにあたっては中身を読む順番で印象がだいぶ変わってくることがある。本書についてはロシア文学者の桑野隆のあとがき、著者のあとがきにかえて部分収録された『隠遁の韜晦』の文章を先に読んでから、本文としての各芭蕉論にすすんでいくという順番であったのだが、最初に読んだあとがきふたつで、なにか普通の日本文学者の研究書とは異なる佇まいを感じて、これはちょっと大変な人なのかもしれないとドキドキしながら読みすすめた。桑野隆は廣末保の論考とバフチンポリフォニー論を比較しつつ賞揚していた。バフチン‐ドヅトエフスキーのカップリングと廣末保‐芭蕉カップリングはボルシチと味噌汁くらい味わいは違いそうなのだが、スープと具材の取り合わせの味わい深さにおいては共通した部分あるというのもどこか伝わってきた。いわく「対話性」。俗なるものと聖なるものとのざわめきを掬いとる形式の発見と展開。片やロシア語近代長篇小説、片や日本語蕉風俳諧という違いはあれど,
読み手の言語観を揺さぶる方向性に類似があると言われれば、そのような気もしてくる。

「変化を与え」なければうんざりしてしまうような日常性の連続と、隠遁者の日常化した非日常の連続は、こうして背中合わせ――とまではいかなくとも、脇腹合わせ程度の関係にはあった。つまり、隠遁者のそれも、うんざりする時間の連続に似ていた。――懶惰。しかし、その懶惰は、「無常迅速」のつきまとった、心せわしい懶惰であった。自適が風狂となり、浮かれ出るのも、そのためであった。
それは、まぎらわされた日常性に対して、優しく攻撃的である。侘ぶるほどの意識も、攻撃的になる。そうして、「ものをおろそかにすべからず」というその俗のなかの「もの」を見出す。だが、その「もの」をものとして置いている日常生活のなかに、そのまま自分自身を置くことはできない。終の栖(すみか)はない。
(「あとがきにかえて」p308 太字は実際は斜点 )

これは研究者の文章というより芭蕉という俳諧師の生を生き直している人のような文章で、知識や情報には収まりきらない情動までよく伝えてくれている。本文を形づくろ複数の論文は和歌、連歌から展開してきた俳諧の発句と連句のジャンル論として捉えるのがいちばん適当なところではあるが、そこでも旅に棲むほかほかなかった芭蕉という人物の精神を鮮やかに描き出しているところは出色で、研究者ではない一般愛好者層にも深く色濃い理解を与えてくれる。芭蕉だけでなく廣末保という研究者にも興味を持たせてくれる一冊。

※ちなみに廣末保は田中優子の師にあたる近世文学研究者。

 

廣末保『芭蕉 俳諧の精神と方法』(平凡社ライブラリー 1980)


廣末保
1919 - 1993

 

参考:

uho360.hatenablog.com