マヌケの抜け道としてのアソシエーション([協同]組合、[自由]連合)を肯定的に語った本。NAM(新アソシエーショニスト運動)から20年、学生運動からかぞえれば62年、ゆるぎない思索と運動から得た経験を、失敗を含めて語り明かした、現時点での総括の書。持続可能な逃走と闘争の戦略書の趣きがあり、理論的にも実践的にも高度な内容が書かれているにもかかわらず、自分でやれるところからやったらよいでしょうという、現実的でハードルの低い誘いがしずかにしみわたる。柄谷行人の晩年様式©エドワード・サイードfeat.大江健三郎の味わい。時間によって醸成された滋味深いおだやかな狂暴性。魂鎮めを司るものの狂暴性。盟友中上健次が果しえなかった翁への生成変化を、現在もやすみなく現実化しつづけているような印象も受ける。「違う」という『地の果て 至上の時』の主人公秋幸の最後の言葉の後につづく、「違う」の変奏の言葉は、他の誰でもなく友柄谷行人が引き受けたのだと私は思う。
※ちなみに私のなかでの中上健次の最高作は『岬』でも『枯木灘』でも『鳳仙花』でも『千年の愉楽』でも『異族』でも『紀州 木の国・根の国物語』でもなく、『地の果て 至上の時』。限界にあって振り絞られるように呻いた「違う」の瞬間。どうしていいかわからくなって体が熱くなって狼狽えたことをはっきり覚えている。
資本主義のなかで「内在的」に対抗するものと、非資本的な交換形態、非資本的な生産と消費の形態を「超出的」に作り出すものに。これらは現に別々になされているわけですが、けっして分離されてはならないものだと思います。
すでに述べたように、「内在的」な対抗運動において大事なことは、ボイコット、すなわち、「買うな」ということ、あるいは「売るな」ということです。それが、NAMによる対抗運動の要になってくると思います。「買うな」というのは、「資本制の生産物を買うな」ということです、一方、「売るな」というのは「労働力を売るな=賃労働をするな」ということです。しかし、そのためには働くところがなくてはならない。あるいは「資本制の生産物を買うな」というためには、別に買うところがなければならない。これらが同時になされなければ、両方とも無力になってしまいます。ただ、このつながりは理論的にはよくわかるのですが、実際にやっていくとわかりにくい。特に「超出的な対抗運動」の方がわかりにくいのです。それは具体的な問題だからです。私自身も今勉強しているところです。
(付録「NAMの原理」[付]海外版への序文 p267-268 )
「マヌケ」というのは、デモを語るときにデモ主催者としてひとつの象徴的な人物であった「素人の乱」の松本哉の『世界マヌケ反乱の手引き』(未読)の書評において、資本主義経済下での中産階級の基準を放棄して、代替的な独自のコミュニティーを作って生き抜こうとしているマイナーでどちらかというと貧乏な人たちのことを指している。松本哉本人も評者柄谷行人も、メジャーで成功すれば賢い側につけるという資本主義経済の論理よりも、勝ち負けの勝負の土台に上らないマヌケのマイナーな共生の戦略を擁護している点で共通している。
「マヌケ」、別の理論家のネグリ+ハートの概念では「マルチチュード」とほぼ重なる。メジャーで権威主義的な体制を忌避し、逃れようともがき考えるマイナーで個性的な人々。無意識に透明な人に対して、色をもっているという自覚でメジャー側からみれば不自然な思考を強制されている人々。余計なことだから考えるのはやめなさいというのは、マイナー側にとっては存在を否定してしまうことにつながる。メジャー側にとっては余計なこと、わけのわからない「違う」を考え、抜け道を設計し工事をはじめてみること。余計なことを考えていかないと先細りが目に見えているグローバル資本主義の無理ゲーしかなさそうですよという忠告とともに、マイナーな側、余計な側、存在を強く感じてしまわざるをえない側の生息範囲を地道に身近なところから広げていきましょうという、地味ではあるが資本と国家に対する根本的な抵抗の方向性を示す実践的な書物。
斎藤幸平『人新世の「資本論」』を読んで何か感じるところがあった人にはぜひともこちらの作品も読んでいただきたい。理論的にも実践方法についてもより深くより具体的な情報がえられます。
【付箋箇所】
21, 30, 37, 40, 48, 56, 69, 81, 86, 111, 114, 116, 118, 131, 137, 152, 155, 177, 199, 228, 246, 252, 266
参考: