読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

アントニオ・ネグリ+マイケル・ハート『マルチチュード <帝国>時代の戦争と民主主義』(原書 2004 NHKブックス 2005) 左翼は愛がなくなったときにその生命はおわるんだなと確認させてくれた一冊

左翼の魂は愛、個人的な愛ではなく「公共的で政治的な愛」が肝となる。柄谷行人の交換様式Xの位置にあるアソシエーションも、言葉をかえればこの「公共的で政治的な愛」となる。左翼は愛がなくなったときにその生命は終わり、権威主義教条主義、官僚機構に変質してしまう。そのような政治力学的に陥りやすい道程を再確認させてくれもする一冊。

私たちは近代以前の伝統に共通して見られる公共的で政治的な愛の概念を回復しなければならない。
たとえばキリスト教ユダヤ教はどちらも、愛をマルチチュードを作り上げる政治的行為とみなしている。愛はまさに、人間同士の出会いの拡大や絶え間ない協働が喜びをもたらすことを意味する。キリスト教ユダヤ教における神の愛には、必然的に形而上学的であるものは一切ない。人間に対する神の愛と、神への人間の愛はどちらも、<共>にもとづく物質的・政治的プロジェクトであるマルチチュードのプロジェクトに表現され、肉化されているのだ。私たちは今日、この物質的・政治的な意味での愛――死と同じくらい強力な愛――を復活させる必要がある。これは何も、配偶者や母親や子どもを愛してはならないという意味ではない。そうではなく、人間の愛はそこにとどまるものではないということ、愛は<共>にもとづく政治的プロジェクトと新しい社会の建設の基盤になるということ、ただそれに尽きる。この愛がなければ、私たちは無に等しい。
(第三部「民主主義」3-3「マルチチュードの民主主義」政治的な愛の復活 下巻 p254-255 )

 

無のほうが楽かなと思うことはあるにしても、無に向きあうと通常激しく凹み落ち込むことも確実なので、向き不向きは別にして、「愛」は政治的なものとして、そして物質的なものとして、その存在にかかわる必要がるものとして認識しておいた方がよい。

 

【付箋箇所】
[上巻]
43, 52, 55, 69, 77, 92, 108, 109, 126, 130, 158, 167, 171, 181, 212, 221, 241, 286, 303
[下巻]
21, 40, 47, 64, 126, 147, 161, 210, 237, 248, 254, 258

www.nhk-book.co.jp

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アントニオ・ネグリ
1933 -
マイケル・ハート
1960 -

 

参考:

uho360.hatenablog.com

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