フッサールの現象学探究のはじまりの講義五講がまとめられたもの。平明を心がけることを方針としてもっている長谷川宏の訳でも読みずらいということは、フッサールの語りそのものが聴講者へのサービス精神をあまり含まないもので、そういうものだとあきらめて接するしかない。行きつ戻りつ、疑問形の多い語り口で、自分で吟味しながら話を繰り返し繰り返ししているので、テキストを読むのではなく講義を受講した人たちは何を目指しているのか理解に苦労してだいぶうんざりしたことだろうと思う。すくなくとも本書は活字化されているのでわからなければ読み直してみるということができるので、まだ取りつきようがある。
悟性を出来るだけすくなくして、純粋な直観をできるだけおおくすべきだ。(悟性なき直観 intuitio sine comprehensione)。じっさい、悟性的知識とは無縁の知的直観について述べた神秘主義者のことばが思いおこされる。かくていっさいの要諦は、直感の目に純粋につきしたがってことばをつらねること、直観にからみあった超越的思念や、思念によってともどもあたえられるものや、ともに思考されたり付加的な反省によって解釈されたものを排去することにある。たえず問題とさるべきは、思念されたものが真の意味であたえられ、もっとも厳密な意味で直観され把握されているのか、それとも思念がそういう領域をふみだしているのか、という点である。( 講義四 p97-98 )
デカルトの懐疑を出発点として語られる「思考(コギタチオ)」は、語感だけから想起すると、ことばを用いて吟味していくことと思ってしまうのだが、フッサールの語る「思考(コギタチオ)」はどうも言語による思惟に左右されない「?」や「!」のような記号であらわすほかない純粋直観のようなものであることが講義を重ねるごとにだんだん分かってくる。言語をはじめとする付加的なものを取りさったところに浮かびあがる純粋に明晰確実なものについて語ろうとするのは、言語では語りにくいものをあえて語ろうとするということであるので、フッサールにとっては語りづらく、フッサールの読者にとっては、読み取りづらいものになるのは致し方がない。語りづらいものを語るというところでは似たところもありそうなウィトゲンシュタインの『哲学探究』の語り口のほうが芸があって、読者としては親しみやすくはある。フッサールの現象学は、マゾヒスティックな側面を鍛えるというつもりで向き合うと良いかもしれない。
【付箋箇所】
9, 22, 49, 50, 53, 67, 70, 76, 80, 81, 85, 87, 89, 90, 93, 98,
エドムント・グスタフ・アルブレヒト・フッサール
1859 - 1938
長谷川宏
1940 -
参考: