20世紀前半、第一次世界大戦終結からヴァレリー晩年の第二次世界大戦終結期までに発表された講演や式辞、エッセイを集めた一冊。西欧精神の優位と没落を併せ語っているところに機械文明・機械産業膨張期に対しての旧世代最後の抵抗がきこえてくる。抵抗というよりも悲鳴といったほうがより適当かもしれない。時代の流れに対する恐れと失望と抵抗、そして呪詛。特に本書の前半を占める精神および知性をめぐっての八篇にその特徴が色濃く出ていて、内容の響きかたも率直かつ大きい。嫌な時代を生きているというおもいがじんわりと伝わってくる。
機械が支配する。人間の生活は機械に厳しく隷属させられ、さまざまなメカニスムの恐ろしく厳密な意志に従わされている。人間が作り出したものだが、機械は厳しい。現在では機械が自分の生みの親たちに向かって規制を加え、彼らの意のままに支配しようとする。機械には訓練を受けた人間が必要である。機械によって、人間の個人差は消滅させられ、機械の規則正しい機能性と体制の画一性に応えられるように訓練される。機械は、したがって、人間を自分たちの用途に合わせ、ほとんど自分たちの似姿に変革するのである。
(「知性について」初出1925年 p90)
「機械の規則正しい機能性と体制の画一性」というのは、すこし前に読んだユンガーの生活のベルトコンベア方式化という指摘も思いおこさせる表現だ。しかし、まだこのころは機械化といっても耐久消費財をつくるための機械であり、耐久消費財という機械であったぶんだけ、精神的な激烈さはまだ淫靡なところまでじゅうぶんには侵入してはいていなかったのではないか。そのように現代に生活する私は考える。
インターネットやスマートフォンが普及し、各アプリに依存する情報交換、商品流通サイクルは3~4年おきに更新されることになっている。ハードウェア的に何ら問題がなくても、ソフトウェア的にサポート対象外になり、商品交換、新機種新サービス更新を迫られる圧力が甚だしい。プログラマー兼システムエンジニアとしてIT業界で生活の資を得させていただいている私のような人物でさえ、呆れてしまうくらいのメインストリームの規格刷新、スタンダードチェンジの高速化だ。興味がある人は最新を追うことに楽しみを覚えられるし、追っている人のエネルギーを身近に感じて、さすがだ、すごい、と感じることはつねに一方にありながら、ついていけないし、あまりついていきたくもないという一定層もいることは確かだ。私もそうだ。枯れた技術が長くつづく領域のほうが性に合っている(だから、新規開発よりも、保守メンテナンスが好きというところがある)。
資本主義的に採算を考えると面倒見切れないという理由はまったくもってもっともなのだが、それ以外も選択肢があって欲しいのというのが技術的不燃層の願いでもある。放置しておくとセキュリティ上問題があるし、攻撃者は新しく脆弱性を発見して問題をついてくるし、かりにサポート対象外製品で事故や事件が発生した場合に責任を問われても企業的に対応できないということは、理知的には納得しつつ、サービス停止と更新継続の判断と心構えとを、いきなり末端ユーザーにまで強いるのは酷な世の中だと思う。
機械は厳しい。人間が精神と知性によってつくりだしたものは厳しい。便利だけれど、行動が従属されもする機械。デジタル処理で線引きが酷なまでに明瞭になってしまった世界。自己責任でもいいのですこし自由に泳がせていただける企業と個人の中間領域が共通了解としてもう少し整備されてくれるとありがたいなあと、利用者側の立場からは本心で思う。
目次(初出追記)
精神の危機 (1919)
方法的制御 (1897)
知性について (1925)
われらが至高善 「精神」の政策 (1932)
精神連盟についての手紙 (1933)
知性の決算書 (1935)
精神の自由 (1939)
「精神」の戦時経済 (1945)
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地中海の感興 (1933)
オリエンテム・ウェルスス (1938)
東洋と西洋――ある中国人の本に書いた序文 (1928)
*
フランス学士院におけるペタン元帥の謝辞に対する答辞 (1931)
ペタン元帥頌 (1942)
独裁という観念 (1934)
独裁について (1934)
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ヴォルテール (1944)
解題・訳註
ポール・ヴァレリーにおける〈精神〉の意味
ポール・ヴァレリー
1871 - 1945
恒川邦夫
1943 -
参考: