狂暴、危険。だが愛がある。学識もある。記号の集積にしかすぎないのに生々しい現実感をもって迫り、訴えかけてくる一冊。
質量ともに圧倒的で繊細華麗なフィルム体験とテクスト体験に裏打ちされた言説が、粗雑さや非歴史的な抽象性に気づかずにいるものたちを白日の下にさらし、無効化させていく。
批判の対象に上っているもの:
ミシェル・フーコー『マネの絵画』
宇野邦一『映画身体論』
アドルノ。特に大衆芸術(映画)に対する鈍感さ
フリードリッヒ・キットラー『グラモフォン・フィルム・タイプライター』
クロード・ランズマン『ショアー』
アラン・ソーカル+ジャン・ブリクモン『「知」の欺瞞』
マルクス・ガブリエル
思考と感性を刺激するもの:
マネの絵画
マラルメの詩
ジャン=リュック・ゴダール『(複数の)映画史』
エリック・ロメール『ステファヌ・マラルメ』
ジャン=マリー・ストローブとダニエル・ユイレ『すべての革命はのるかそるかである』
ミシェル・フーコー『言葉と物』
ジル・ドゥルーズ『シネマ1』『シネマ2』
ジャック・デリダ『声と現象』
ハイデッガー
ポール・ド・マン
映像を中心に語りながら、芸術や技術における声の不在を浮き上がらせるという、繊細かつアクロバティックな主題提起も見事。
誰もが等しくマラルメの肖像写真を見ることができるのに、その声を聞くことはできないという状況は、今日にいたるもなお維持されている。そのことの歴史性に目を向けて見なければならない。
ここで見落としてならぬのは、この現実が、逆説的に声の優位を立証しているということだ。つまり、声は、イメージと異なり、まさに身体そのものであるがゆえに、かえって触れがたい領域に身を隠しつづけているのである。映画など誰にも撮れるが、あらゆる者が等しく声の再現にかかわってはならない。あからさまに明言されることのないその暗黙の禁止が、二〇世紀の歴史を複雑に染めあげているのである。
(Ⅷ 声と文字 「メディア論的陥穽」p150 )
人物名が三つ連なる蓮實重彦作品としては『フーコー ドゥルーズ デリダ』がある。いまは手許にないこの書物、中身もほとんど覚えていないのだが、本書が再読せよと呼びかけているような感じも受けている。また処女小説に『陥没地帯』という日本文学のどこに位置づけたらよいのかよくわからない奇妙な作品があるのだが、もしかしたら本書が読み解きの手引きになってくれるかもしれないという感触もあった。いずれもそのうち読み返してみたい。
目次:
第一部
Ⅰ 絶対の貨幣
Ⅱ 『(複数の)映画史』におけるエドワール・マネの位置
Ⅲ マネからアウシュヴィッツまで
Ⅳ 鏡とキャメラ
Ⅴ フィルムと書物
Ⅵ マネとベラスケスまたは「画家とモデル」
Ⅶ 「肖像画」の前で
Ⅷ 声と文字
Ⅸ 偶然の廃棄
Ⅹ 複製の、複製による、複製性の擁護
Ⅺ 理不尽な楽天性と孤独
Ⅻ 旅人の思索
第二部
Ⅰ フィクションと「表象不可能なもの」 あらゆる映画は、無声映画の一形態でしかない
Ⅱ 「ポスト」をめぐって 「後期印象派」から「ポスト・トゥルース」まで
あとがき
増補版のためのごく短いあとがき
蓮實重彦
1936 -
ジャン=リュック・ゴダール
1930 -
ミシェル・フーコー
1926 - 1984
エドゥアール・マネ
1932 - 1883
参考: