読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

ロルフ・ヴィガースハウス『アドルノ入門』(原書 1987 平凡社ライブラリー 1998)

ユルゲン・ハバーマスのもとで哲学の学位取得した著者による辛口のアドルノ入門書。フランクフルト学派全体の研究として評価の高い大冊『フランクフルト学派 ―歴史、理論的発展、政治的意義』(1988)と同時期に書かれたアドルノの業績全般の紹介の書で、コンパクトでありながら非常に内容の濃いものにしあがっている。

美学的にはシェーンベルクベケットツェランを評価し、文化産業として拡大していった新メディアや大衆芸術を嫌悪し目を背ける傾向にあったアドルノ。その偏向性と普遍的同一性に囚われることを忌避するがために否定を重ねて細分化しながら論を進めるアドルノの著作のスタイルはなかなか読み手に寄り添おうとはしてくれないのだが、その点も踏まえながらヴィガースハウスはアドルノの思想の歩みの中軸をはっきりと描き出してくれる。それは、10年上の世代の輝かしいユダヤ系ドイツ人の著作家たち(ベンヤミンショーレムブロッホ、クラカウアー)からアドルノなりに引き継いだ「メシア的唯物論」というべきものであった。

世界が引き裂かれたこの状態を、彼はヘーゲルの観念論のように根本においては同一のものが二つに分裂した状態。ということはつまり、絶対者の使用可能な契機である、などと思ってはいなかった。また、世の哲学のように、悟性と科学と技術とによって、根底にある本来の生が歪曲されている状態だと思ってもいない。(中略)世界が引き裂かれているという事態は、アドルノの場合にはむしろ、それ自体としてメシア的な意義を有していたのである。彼の眼には、引き裂かれた世界の彼岸にはいかなる世界も存在しない。希望がもし存在するとするなら、それは引き裂かれた世界の瓦礫そのもののうちに保持されているにちがいないのだ。崩壊し、引き裂かれたこの世界のみが、救済の舞台たりうるのである。
(第2章 非同一的なものの哲学-否定弁証法 1 メシア的唯物論 P60-61 )

 

瓦礫の断片につかのま宿る輝きが至福の一瞬をもたらす。彼岸を否定し此岸を見つめるという姿勢は、どちらかといえば正しいような気にもさせるのだが、アドルノの要求は一般大衆層にはかなりハードルが高いので、理解も感性もなかなか追いつくことができない。

 

不協和音についてアドルノはこう語っている。不協和音は協和音に比べて、より洗練され、より進んでいるだけではない。文明の秩序原理によって完全に馴致されてはいないので、同時に調性より古いものであるかのように聞こえもする、と。
(第4章 モダニズム芸術の哲学-美的仮象による「幸福の約束 2 音楽における進歩と無形音楽という理念 P211 )

 

アルバン・ベルクに作曲を学んだ音楽家としての顔も持ちあわせるアドルノだからこそ聞こえる耳なのではないかと、疎外されたような気分にもなるのだが、小説や戯曲や詩であっても、読むことの蓄積の上に立たなければ見えてこないこと読みえないこともあるというのは体験的に知ってはいるので、音楽も聴き続けるなかで耳も変わってくるのであろう。その耳ができたときにもう一度アドルノのことばを思い出してみたいと今は思う。

https://www.heibonsha.co.jp/book/b160452.html

【付箋箇所】
20, 26, 28, 40, 48, 61, 96, 97, 101, 104, 122, 124, 147, 148, 166, 168, 172, 188, 193, 201, 211, 215, 217

目次:
第1章 ファシズムの時代を生きた市民階級のインテリ・アウトサイダー
第2章 非同一的なものの哲学-否定弁証法
第3章 批判的社会理論-権威主義的主体の管理社会
第4章 モダニズム芸術の哲学-美的仮象による「幸福の約束」
第5章 多岐にわたる影響

テオドール・W.アドルノ
1903 - 1969
ロルフ・ヴィガースハウス
1944 -
原千史
1961 -
鹿島徹
1955 -

 

参考:

uho360.hatenablog.com

uho360.hatenablog.com