小説。
『箴言録』で有名なラ・ロシュフーコーが残した『回想録』の体裁にならって(単行本p398参照)、ラ・ロシュフーコー公爵フランソワ六世が語り手となり、三人称形式と一人称形式を混ぜ合わせながら、ラ・ロシュフーコー家の歴史と十七世紀フランスを中心とした社会情勢を浮かび上がらせていくというスタイルの小説。カソリックとプロテスタントの対立、教権と王建との対立、家族兄弟間にまで及んだ権力闘争が尽きずわきあがってくる激動期の騒擾と闘争と姦計をうかがい知ることもできる、語りに特徴のある歴史小説との印象を持った。
あくまでラ・ロシュフーコー公爵の回想という枠組みのなかでの展開であるため、語り手の主観を超えた歴史的な状況分析を濃密に埋め込むというところまでは手は染められていない。その点、抑制のとれたフィクションに仕上がっているのだが、堀田善衛自身がラ・ロシュフーコー公爵と彼が生きた宗教戦争盛んな時代をどう見ていたのかという生の声も聞いてみたい、という思いも起こった。
第二次世界大戦を経験した世代の堀田善衛は、戦前、戦中、戦後で劇的に変わった世相を見たことで、時代の変換期に対する関心が非常に高い作家であることがうかがえる。本書においても、戦闘方法や信仰観に関して、移行期における無効化されつつある側へのまなざしと詠嘆が数か所で感じられる。それも興味深く受け止めた箇所ではあるのだが、政治家や武人としての環境よりも、文人として感じていたであろうラ・ロシュフーコー公爵の時代感覚に寄り添って言葉を紡いでいるような部分が、より精彩を放っているように私は感じた。
たとえば次のような箇所。
しかし、陰謀やら強欲な王母などの、どことなく埃っぽい話ばかりをして来たので、ひとこと付け加えておくと、アンリ四世やルイ十三世の宮廷で一番読まれていたものは、ミシェル・ド・モンテーニュ殿の『エセー』は言うまでもないとして、新しく翻訳されたシェークスピアの劇であった。抗争と陥穽だらけの宮廷生活にあって、誰もが身につまされるところがあったせいであろう。後にはセルバンテスの『ドン・キホーテ』が加わった。
(単行本 第六章 p114)
さらには、
先師ミシェル・ド・モンテーニュ殿はストア派を批判するにしても、やんわりとすべてを包み込むようにして、いわば総括的であったが、われわれ、デカルトやパスカルも含めてもいいかもしれないが、われわれにはもうそれだけの余裕がなかった。
大多数の人間が、あたかも仮面劇のようにして種々様々な道徳的、あるいは精神的な仮面をかぶっている。その仮面を剥ぐ(démasquer)ことに急き込んだのであった。
(単行本 第二十一章 p409)
思いがけないところで世界が多次元化して立体的かつ感覚的になってくれると、息づくことができる歓びがわきあがってくる。十七世紀が現在とひとつづきの時代のように感じられて、世界が広がった感覚がすこしした。
本書はモンテーニュを描いた大冊『ミシェル 城館の人』(全三巻、1991-1994)のまえに、馴らしという意味も込めて読んでおこうかなと思った作品で、読んだ結果としては、堀田善衛に対しての信頼感のアップにつながっている。一週間堀田善衛オンリーでも大丈夫だろう、そういう気持ちに落ち着いている。
【付箋箇所(単行本ベース)】
39, 73, 93, 98, 104, 114, 136, 142, 156, 212, 225, 258, 305, 338, 348, 365, 366, 384, 394, 401, 404, 406, 409, 411, 430, 435, 444
堀田善衛
1918 - 1998
ラ・ロシュフーコー公爵フランソワ六世
1613 - 1680
参考: