読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

2021年日本のシルバーウィーク、この三連休は積読本を消化 モーリス・ブランショの中編小説五篇を読む。結果、丸呑みのまま、異物として未消化のまま、作品のたくらみが内部に残る


心地よくはないが、何かただごとではない佇まいで読めと迫る小説の姿をまとったことばの塊。

人文科学の先端領域での研究サンプルとしての、一フィクションとしての対話。精神分析言語学を吟味するための限界領域での対話セッションのひとつの例のような印象を各作品にもったりもするのだが、それは、小説というジャンルの作品として提示されているこれらのことばの連なりが、はたして現実界の何の譬喩なのだろうかと、答えなしに読者に問いかけている企みであるような挑発の試みであり、容易に物語の枠組みには収まらず、消化や納得の成立を許さずなおかつ望みもしない、間歇的で微細な意味生成の断片がかろうじて集積しているに過ぎないテクストの不可思議な時空間であるような、落ちつきを与えてくれない言語体験の場となっている。

 

今回読んだ作品のリストは以下になる。

モーリス・ブランショ『死の宣告』三輪秀彦河出書房新社 1978
 [原書]
  死の宣告  1948
  牧歌  1951
  窮極の言葉  1951

モーリス・ブランショ『望みのときに』谷口博史訳 未来社 1998
 [原書]
  望みのときに  1951

モーリス・ブランショ『最後の人/期待 忘却』豊崎光一訳 白水社 1971, 2004
 [原書]
  最後の人  1957
  期待 忘却  1962

 

この五篇のなかで、曲がりなりにも時系列的に劇を再構成し物語を構築できるのは「牧歌」の一篇のみである。この「牧歌」にしてからが、カフカの悪夢的官僚機構に親和的な、思弁的考察を迫る事例提起という様相を持っているのだが、その他の作品は、全体を通しての明確なストーリー展開というものすら存在せず、便宜的に登場させられているような複数の発話主体兼観察対象が織りなす、言語と身ぶりの瞬間的なセッションの相互関連から成る、ほのめかしとすれ違いだらけの解釈の劇といったような相貌しか示してくれない。

いったい、何を読まされているのだろうという思いはつねに基底にあるが、それは何の企みが潜んでいるのだろう、おそらくは、言語と意識と他者と自己との配置にかかわるものだということは察知できるのだが、なにぶん答えも明瞭な問いさえも埋め込まれていないので自分で考えるための端緒として利用するほかない。そのように評価のことばを綴ってみると、不完全な作品、欠陥品という分類に堕ちてしまいそうだが、そうではない。分かりやすくは提示されてはいないが、作品の形式自体が不可解なものがあることを訴えている。言語や人間の不可解さが、100ページ少しのテクストのまとまりから、消しようもなく顔をのぞかせている。

消化できない言語と仕草。自分自身でもわからず消化もできていない言語と仕草。それらが、他者と関係し、さらに自身に反照することで、より不明瞭不安定になるさまを、肌触りの悪さ、居心地の悪さとともに、再創出しようとしていることが、ブランショの小説が示す方向性なのではないか。そんな風におもいつつ読みすすめた三日間であった。

 

モーリス・ブランショ
1907 - 2003