読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

ミハイル・レールモントフ『デーモン』(前田和泉訳、ミハイル・ヴルーベリ絵 エクリ 2020)

悲しきデーモン、追放の精霊が
罪深き大地の上を飛ぶ

 

なぜに天使は堕ちるのか?

それは、能力あるがゆえの過信と傲慢、よかれと思いとった行動が矩を踰えていることに無自覚なため。

 

冒頭追放されたデーモンがなぜ追放されたかの理由は告げられることはないまま詩は展開していくのだが、地上の娘に恋しておのれの思いをとげるため人間界の出来事に介入していくという領域侵犯を起こすというところからして、天界から転落追放されるのも必然と納得させる作品のまとまりになっている。ギリシア・ローマの神々であれば、人間の娘に恋して手を出そうが非難される地位にはいないわけだが、キリスト教の一精霊にはそれは許されない。すべてを統べる神の采配を超えて独断で行動し、用いるべきでない能力を適用すべきでない理由と対象に対して行使してしまうことの罪深さ。そしてその行為を押しとどめられない弱さ。そしてすべてを失ってしまうことの悲哀。

 

突き放して関わらぬのがいちばんの対応とは思いつつ、同情が働き、愚かしさへの憐憫の情が、追放の精霊、デーモンに対して湧きあがる。デーモンの不安定さは、われわれの不安定さでもある。抑えきれない情の発現を感知したところで、われを超えて増大していくに任せるか、制限を設けて他所を向くようにするか、愚かしさが消えないならば、おのれに対しての付き合い方をとりあえず選択しなければならない。

ただ選択は、おおむね失敗する。おのれの基準しか感知しえないため。

詩を読む今このときは、失敗の事例にしばし寄り添い、時を過ごすことができる。自分に近しい魂の失敗の経験に身を浸して、まったく同じ時を過ごすという経路だけは回避し距離を置くための経験の蓄積とすることができる。生は無味無臭の更地ではない。歴史的な臭いのある時空に、また余分であるかもしれない時空の厚みを一枚被せていく余地が残されている。どのようなものがくるか不明であっても、今につながる時空はある。

堕ちた一つの精霊が決定的に罰せられた後の世界もまた、できごとの前から確実につづく一つの世界。大きな劇が終えた後でもなにごともなく普通につづく世界。ドラマの生成と、ドラマの消滅が何事もなくつづいていくだろう場の感覚を、文芸という始まりも終りも不明な世界は描き出しつづけていくのだと思う。

「失せよ、陰鬱なる疑いの霊よ!」
天の使者は答える。
「お前は存分に勝利を味わってきた、
だが今、裁きの時が来たのだ――
神の定めは幸いなり!」

劇中、とりあえずの裁きはもたらされた。しかし、フィクションとしてのひとつの裁きの後の世界をも、われわれは生きている。いかに見事に物語られたものであれ、完結されることなくはみ出した場で生きる、なんとも不思議な読者という存在として、本を読み終えたものは呆然とする。呆然とする技術をつかのま得るために、作者当人も呆然としているかも知れないテクストに寄り添ってみる。それは確固たる神の計らいに寄り添うことではなく、不遜かもしれぬ精霊のように、よかれと思う思いなしに半身を寄り添わせてみせる賭けの要素の非常に多い、自由かつ非情の世界だ。そんな世界に身を委ねられるのは、フィクションの世界をおいてほかにはほとんどない。

レールモントフの『デーモン』はそんなフィクションの世界の力学を、最小限の表現行為のなかで、感覚させてくれるすぐれた作品であるように感じた。

http://www.e-ecrit.com/publication/874/

 

ミハイル・レールモントフ
1814 - 1841
ミハイル・ヴルーベリ
1856 - 1910