読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

宮下規久朗編『西洋絵画の巨匠⑪ カラヴァッジョ』(小学館 2006)と宮下規久朗『闇の美術史 カラヴァッジョの水脈』(岩波書店 2016)

カラヴァッジョを最初に凄いなと思ったのは、静物画「果物籠」を中学生くらいのときに画集で見たときだったと思う。テーブルの上に置かれた籠は手に取れそうだし、籠の中のブドウは指でつまんですぐに食べられそうなみずみずしさだ。すこし虫に喰われたところのあるリンゴも色つやがよく、かえって無農薬栽培のよさが出ているような気にもさせる。濁りも躊躇もない的確な描写で、見るものの感覚を一瞬とらえて離さない力がある。カラヴァッジョに単独の静物画はほかになく、西欧の神話や聖書に取材した作品が多いこともあって、教養のほとんどない、どちらかというと印象派以降の静物画や風景画がよいと勝手に思っていた当時の田舎の中学生には縁遠く、それ以上進んで関係を持っていこうという気も起らないまま時は過ぎて、気がつけば美術自体にも縁遠い生活を長い間送ってきた。

ここ数年、仕事上のものと生活上のものについての限界と諦念を感じ、それに自分を慣れさせるように時間を使うように方向転換しはじめたところで、画集や美術書にもよりゆっくりと向き合うようになった。そのなかで関心を持った美術史家に宮下規久朗がいて、彼の専門がイタリア17世紀バロック美術、とりわけカラヴァッジョということで、今回彼が編集解説した画集とカラヴァッジョを芯に置いた美術論集に触れてみた。

光と闇のコントラストを見事に操った才能の持ち主であるカラヴァッジョの作品とその影響関係を、二冊ともに丁寧にたどっているという印象だ。

読み、そして作品を見る順番としては、画集が先、研究書が後のほうがよい。研究書の方はどうしても作品の図版が少なく、しかもモノクロ写真での紹介にとどまってしまうから。画集がなくても、日本語版ウィキペディアのカラヴァッジョの項目はかなり充実していて、そこに掲載されている画像を見ながら、研究書を読むというのも手だが、その場合は、パソコンよりも画面の小さなスマートフォンで見たほうがかえって作品の良さはわかると思う。ウィキペディアに掲載されている画像の画質が若干粗いので、画面が大きいとその粗が目立ってしまって興をそがれる可能性がある。スマートフォン程度のスクリーンの大きさだとかえって絵が締まってコントラストもより鮮明に感得できる。闇と光は同時にあることでより印象深いものになるという宮下規久朗の主張も裏打ちしてくれる画像となると思う。デジタルでデータが提供されている場合、気に入らなければ提供されたままを見るのではなく、すこしモードを変更してみるという工夫も必要だし、簡単な調整で自分の意に沿うものになるのであれば、それはぜひとも試してみるべきことだと私は思っている。ただしあくまで私的使用の範囲内での話ではある。

二冊ともに、ひとりの研究者のカラヴァッジョがメインの著作だけあって、刊行年に10年の開きがあっても、論していることは重なっていることが多い。しかしながら、それがあまり嫌な感じがしないのは、自腹を切っていない図書館貸し出しの本であるということもあるけれど、核心を突いた指摘であるとともに、一方の画集が作品ごとの短い注解の形式であり、もう一方の研究書が時の流れと他の地域への伝搬を考慮したより論考対象い幅のある時系列的で俯瞰的な論述になっているためであるだろう。

画家と観者には、線=デッサンを重視するタイプと色調と陰影=立体的現実感を重視するタイプがあり、カラヴァッジョは後者の一起点となった画家であること、色調と陰影を重視するタイプの画家にあっては、現代にいたるまで大きなパトロンであった教会に作品が置かれることが前提であるために、その配置環境にふさわしく聖性をまとわせるための配慮がなされつつ作品が制作されたこと、カラヴァッジョの個人史においては、血の気が多く素行不良をくりかえす体質から、訴訟や犯罪、果ては殺人まで犯してしまったがために、その後は流浪逃亡の生活を送りながら、各地で注文を受けつつ落ち着く間のない制作のなかでスタイルを変化させて、最後まで画家として生き凌いでいたこと、などのことがらが、明瞭で簡潔な文章群からうかがい知れて、取得できる情報に関しては質・量ともに納得できるものになっている。

たとえば、カラヴァッジョに直接は関係していないものの、教会において光が持つ意味というものを論じたところなどは、他の研究者の業績からの援用ではあったとしても、貴重な教えとなっていて作品の価値を高めている。読んでいて素晴らしいと思える箇所だ。

ゴシックの教会を飾る色鮮やかなステンドグラスも、光によって神の姿や物語を表すものであったが、教会に差し込むこの光は神にほかならなかった。東正面に設置された薔薇窓は聖母を表し、教会建築の象徴性を高めた。聖ベルナルドゥスは、ガラスを透過する光を人間となった神の言葉にたとえたが、同じように、窓ガラスを破壊せずに差し込む陽光は処女マリアにキリストが宿ることになぞらえられた。そして、光が窓を通ってガラスの色に染まることが、神が聖母の腹を通過して人間の属性をもつことに擬されたのである。中世にこうした比喩が流行したことは、ステンドグラスの流行と無関係ではないだろう。
(『闇の美術史 カラヴァッジョの水脈』第1章「闇の芸術の誕生」p8 )

宮下規久朗自身がキリスト教の信者であることもあって、キリスト教的な聖なるもののイメージと聖書が語るエピソードについての解釈の深さと喚起力の強さは相当強い。さらにカラヴァッジョの天与の才能によって作り上げられた生気あふれる作品が、取材対象である聖書に向きあうよう誘いをかけているところもある。絵で見たからには、ことばでも聖なるときを体験をせよという、無言の導き。今回読み、鑑賞した二冊の本は、異教徒や無信仰者にも聖書を読むきっかけを与えてもくれる、間口は広いが深淵にも通じている、なかなか忘れがたい作品にまとまっているように思えた。

 

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【付箋箇所】
12, 19, 48, 52, 60, 64, 70, 100

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【付箋箇所】
ⅶ, 1, 8, 33, 48, 51, 55, 109, 112, 125, 132, 151166, 169, 177, 197

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ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ
1571 - 1610
宮下規久朗
1963 -

参考:

uho360.hatenablog.com