読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

モーリス・ブランショ『ミシェル・フーコー 想いに映るまま』(原書1986, 豊崎光一訳 哲学書房 1986)

ミシェル・フーコー(1926-1984)が亡くなってから二年後に交流のあったモーリス・ブランショが沈黙を破って書いた追悼の書。ブランショがようやく亡くなったフーコーについて語ったということで、日本でも緊急出版されたあたりが当時の人文系学問界隈の熱を感じさせる。とはいうもののブランショのこの本は、ポイントの比較的大きな活字を使った訳書でで90ページたらずで仰々しいものではなく、どちらかといえば文章のスタイルも軽い。訳者の豊崎光一は、後記で、ブランショが、フーコーの仕事における深さの否定と表面の言語の可能性という問題系をとりあげているという指摘をしていて、本書でのブランショは、語る対象にふさわしいアプローチをしているんだなということを思った。

人々は、フーコーが、その点では文学産出のある種の考え方に従って、主体(シュジュ)という観念を単純明快に厄介ばらいしている、ということを確実と見做している――もはや作品はなく、作者はなく、創造の一体性はない、というわけだ。しかしすべてはそれほど単純ではない。主体は消滅するわけではない――そのあまりに限定された一体性こそが疑問となるのである、というのも、関心と探究を惹き起こすのは、主体の消滅(すなわち、消滅というその新たな存在様態)、あるいはさらに、主体を絶滅させはせず、主体についてその複数の位置と機能の非連続性のみをわれわれに差し出す散逸だからである。
(「非連続性への要請」p33-34 )

いまになって読み返してみると、作者という立場ではなくても、仕事をし何かしらを生産する労働者あるいは生活者という立場でさえも、散逸し、断片化し、漂流し、希薄化するなかでの、それにふさわしい準備と立ち回り方を促すような言説でもあったのだなというように感じた。

本書とは関係ないことだが、フーコーの主著は大冊で単行本だと寝ころんで読むのはつらい。ブランショも似たようなものだが、文庫で読ませて欲しいなと思っている。


目次:
個人的な言葉をいくつか
危険に晒された人
構造主義への訣別
非連続性への要請
知、権力、真実?
隷属から主体へ
内なる確信
今日、私とは誰か?
血の社会
知の社会
人種差別の殺人
性について語ることへの執念
おおわが友らよ


ミシェル・フーコー
1926 - 1984
モーリス・ブランショ
1907 - 2003
豊崎光一
1935 - 1989

参考:

uho360.hatenablog.com

uho360.hatenablog.com