読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

竹西寛子「式子内親王」(筑摩書房 日本詩人選14『式子内親王・永福門院』1972, 講談社文芸文庫 2018)「式子内親王集」を読む ②

式子内親王の形而上性、具体性をともなわない観念に傾いた歌にまず魅かれるという竹西寛子の評論。

病がちであったこともあり、人との交流には向かわず、家に引きこもり歌を歌った後白河院第三皇女式子内親王。私歌集と勅撰集に残された400首足らずの歌を繰り返し読むことで、20代から40代にかけての年代ごとの作品の特質と変遷を読み解く。年を追い、寄り添うべきものも失っていくなかで深まりゆく悲しみと静けさ。静のなかの動にこころ動かし、移りゆく世の無常を観ずる、その捉えかた感じかた歌いかたは、若き日と老いが迫りつつあるときでは違ったものになってきているというのが竹西寛子の見立てである。

 

若き日の歌として繰り返し挙げられる歌二首:
見しことも見ぬ行末もかりそめの枕に浮ぶまぼろしの中
浮雲を風にまかする大空の行方も知らぬ果てぞ悲しき

立ち現われた現実も、まだ立ち現れていない現実も、ひとしくかりそめの枕に浮ぶまぼろしの中と断じられた誠実な性急さ、人の生はつねに運動の半ばでしかなく、その行方の知れないことが悲しいと結論づけられた一途さはすでに遠くて、具体的な世界の部分をただ的確に示そうとする冷たい情熱が、強引に、部分を全体に関連づけようとした熱い志向にかわっている。
( 第五章 p65 )

年を経て歌われたなかからの一首:
山深み春とも知らぬ松の戸に絶え絶えかかる雪の玉水

 

「玉の緒」の歌よりも「雪の玉水」の歌に式子内親王らしさを感じるという評者ならではの選歌の傾向に新鮮さを感じた一篇。

 

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【付箋箇所(筑摩書房版)】
11, 18, 65, 70, 84, 91, 124, 127

 

式子内親王
1149? - 1201
竹西寛子
1929 -

 

参考:

uho360.hatenablog.com