読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

ジャック・デリダ『哲学のナショナリズム 性、人種、ヒューマニティ』(パリ社会科学高等研究院での原セミネール 1984/85, 原書 2018, 藤本一勇訳 岩波書店 2021)

ハイデガーのトラークル論をデリダ脱構築的に読み直し論じた講義録。単純に詩人トラークルが好きだからということで手に取って読んだとすると、ハイデガーデリダもなに言ってんのということになりかねないし、トラークルの詩の印象からはかなり隔たっていたりする論考ではあるのだけれど、哲学者だとそういう読み方もするのねというところで刺激にはなる。最終的にトラークルのテクストの語句からは両者とも離れることはないので、詩の読み手としての姿勢が貫徹されているところに、畏敬の念を覚えたりもする。論旨に乗れたか乗れなかったかとはべつに、読むということの力が書かれたものから伝わってくるのだ。

トラークルの「死の七つの歌」という詩群のなかの一篇『夕べの国(ヨーロッパ)の歌』とそれとは別の『夕べの国(ヨーロッパ)』について、ハイデガーがこの詩のなかに「頽落」の詩しか見ないのであれば、その読み方や思考は短絡的だろうと語っているのを受けて、デリダハイデガーとともに歴運的[存在生起的]な、原-根源への回帰としての救済を見て取る。

歌うことによって詩は、歴史や過去の歴史的な対象を物語るのでも、報告するのでも、表象[再現]するのでもない。そうではなく、こう言えるだろう。詩は歌うことによって、みずからが歌う出来事を打刻し、救い出し、その出来事に参加するのだ、と。詩は救済の打刻を到来(ヴニール)させるのだ、と。 
歌い上げられた「言い換えれば」のこの一致(ユニゾン)、<約束でもあり救済でもある将来(ヴニール)>を打刻する原-根源のこの歌は、すぐれて回帰のかたちをとる。将来へ向かう運動は、原-根源への回帰なのである。

(第十三講 p233)

「夕べの国」は「過ぎた朝から最も時間が経っているぶん、いっそう来たるべき朝に近いのである」(デリダ)。実際のトラークルの詩の印象は、夕べの国の妖しい暗さと、そのなかに蠢く妖しいほのあかりのほうが強く感じられると私は思うのだが、そのなかにハイデガーからデリダへと延びる人間の本来的なものへの回帰と救済の光があるという教えを受けつつ読み返すと、トラークルの別の詩想もほのかに見えてくる。

www.iwanami.co.jp

【付箋箇所】
2, 6, 57, 64, 66, 71, 76, 78, 7985, 89, 90, 94, 104, 109, 111, 116, 124, 126, 130, 139, 142, 148, 152, 158, 161, 164, 166, 168, 180, 187, 197, 203, 204, 208, 209, 219, 222, 224, 232, 233, 235, 283, 296

目次:
序文(ロドリゴ・テレゾ)
編者による註記

ロヨラ原稿(第七講の終わり、第八講)、および第九講-第十三講
第七講の終わり、第八講
第九講
第十講
第十一講
第十二講
第十三講


解題(藤本一勇)


ジャック・デリダ
1930 - 2004
藤本一勇
1966 -


参考:

uho360.hatenablog.com

uho360.hatenablog.com