読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

モーリス・ブランショ『マラルメ論』(粟津則雄・清水徹訳 筑摩叢書 1977)

ブランショマラルメ論考を集めた日本独自の書籍。翻訳も各論考もなされた時代にかなりの幅があり、出典も異なっているため、一冊の本として筋の通った展開があるわけではないが、各論考でくりかえしとりあげられるマラルメの言語に対する姿勢が、すこし差異を持ちながらも、核の部分にあたるところは重なりつつ、色濃く浮かび上がってくるようになっているため、ブランショマラルメ観をまとめて読む意義を感じさせてくれる編集になっていると思う。

出典と刊行年は訳者あとがきによれば、以下のようになる。

粟津則雄:
マラルメの沈黙」「マラルメの詩は難解か?」「マラルメと小説芸術」――『踏みはずし』(1943)
マラルメの神話」――『火の分け前』(1949)
マラルメの経験」「イジチュールの経験」――『文学空間』(1955)
「来るべき書物」――『来るべき書物』(1959)
清水徹訳:
「書物の不在」――『終わりなき対話』(1969)

論考の対象となる作品としては、詩作品では『イジチュール』と『骰子一擲』、エッセイでは「詩の危機」「音楽と文芸」が中核を占めている。「存在のリズミックな押韻分解」ということが言われているため、本来であればマラルメの詩は書かれた言語フランス語で味わうべきものなのであろうが、『イジチュール』も『骰子一擲』も『詩の危機』も日本語訳があるので、フランス語を知らなくてもある程度はマラルメの驚異的な詩を知ることは可能であり、ブランショの言っていることも理解可能になってくれている。

マラルメは、言語とは、通常の幾何学的空間も実生活の空間もけっしてその独自性をとらえさせてくれないような限りなく複雑な空間的諸関係の一体系であるという、彼に至るまで無視されてきたし彼以後もおそらく無視されている事実を、つねに意識していた。人は何ひとつ創造しないのであり、言語が局限され表現されたことばである以前に諸関係の黙々たる運動でありつまりは「存在のリズミックな押韻分解」であるよるような極度に空虚な場所へあらかじめ接近することによって、はじめて人は創造的に語るのである。ことばがそこにあるのは、つねに、それらの関係のひろがりを示すためにすぎない。
(『来るべき書物』ⅱ文学空間の新たなる理解 「錯乱を通して集中される」p141 )

「存在のリズミックな押韻分解」というのは、別の論考でヘルダーリンを参照して言われるところの「神々に名前を与える」ということに通じるのではないかと考えている(「マラルメの詩は難解か?」p25 )。

その他の印象としては、『終わりなき対話』の終章でもあるという「書物の不在」を読んでいるときに、デリダを読んでいるような感覚になったことが感覚として残っている。

目次:
マラルメの沈黙
マラルメの詩は難解か?
マラルメと小説芸術
マラルメの神話
マラルメの経験
イジチュールの経験
来るべき書物
 ⅰコノ書物ヲ見ヨ
 ⅱ文学空間の新たなる理解
書物の不在

www.chikumashobo.co.jp

【付箋箇所】
8, 24, 25, 35, 37, 40, 41, 50, 51, 71, 80, 81, 91, 92, 97, 125, 127, 141, 145, 146, 150, 152, 181, 183

モーリス・ブランショ
1907 - 2003
ステファヌ・マラルメ
1842 - 1898
粟津則雄
1927 -
清水徹
1931 -

参考:

uho360.hatenablog.com

uho360.hatenablog.com