読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

折口信夫『口訳万葉集』上 (文会堂書店 1916, 岩波現代文庫 2017)

まだ無名の30歳を迎える前の貧乏研究家だったころの折口信夫の破天荒な業績。

中学教諭を辞職し、あてもなく上京、教え子とともに共同生活を送るうちに、生活の破綻が本格的に迫ってきたところ、大学時代から折口の抜群の才能を目にしてきた人たちが、救いの手を差し伸べる。

1916年は大正5年。当時万葉集の現代語訳はまだなかった。世は与謝野鉄幹、晶子、北原白秋などのきらめく才能が躍動し、短歌ブームが起こっていた。文芸熱も高かった。

そのような状況の中で、古典現代語訳シリーズ刊行の話が持ち上がり、万葉集担当として國學院大學系の人びとが折口信夫を推挙した。まだ何の実績もない折口信夫を、大学教師で研究活動の実績もある人をおいて、担当につけるという大胆さ。暴挙に近い決断だったと思うが、折口を知っているひとたちには、勝算というか、確信があったのだろう。折口を、このまま、埋もれたまま、朽ちさせるのは世の中にとっても損失であると。

当時の友人や師の助けもあって、若い時代の折口の仕事が、100年の時を経てもなお、新たな刺激を読む者に与えてくれている。岩波書店によって新たに文庫化されて、予備知識のあまりない人間の手にも、こうして届いて、なにか不思議な読書体験をもたらしてくれている。

まぎれもなく万葉集の歌をよんでいるのに、本当にこれ万葉集なのかという、疑いさえ湧いてくるようなわかりやすさと親近感。奈良時代までの多くは高貴な立場にある人びとの公的表出活動を、毀損することなく、日本が本格的に近代化しはじめたころの時代の言葉にも置き換えているという印象がある。

著作の形式として特徴的なのは、まず、注釈がないこと。次に、万葉仮名の原テクストから、本文を句読点付きの漢字かな交じり文に変換していること。句読点をつけることによって、本文を折口解釈の息遣いでまず感得できることが、万葉集に対する親しみを高めていることは強調してよいところだと思う。さらに、口語訳は折口自身が教えた中学生のレベルでも分かるようにしたと言っているように、世俗的な感覚でも理解可能になっている。おじちゃん、おばちゃんが口にするかもしれないことばで、口語の歌に翻訳されている。

読者にとっては二番目とと三番目の折口の工夫の恩恵が大きい。二番目の句読点の存在で、本文レベルでも理解と感応の度合いがかなり高くなり、独自の口訳によって改めて本文の良さがわかるという好循環を作っている。ほかの注釈書であれば流してしまっていたかもしれない歌に目を留めさせてくれるという力を持っている。

1203:
磯の上に抓木折り焚き、汝が為と、我が潜ぎ来し。沖つ白玉
いそのへにつまぎをりたき、ながためと、わがかづききし。おきつしらたま

口訳:
この土産は粗末に思うてくれるな。お前のためだからというので、寒い体をあぶるために、磯の辺に木の端くれを折っては焚き、折っては焚きして、温めては潜り込み、温めては潜り込みして、やっと手に入れて来た、沖の真珠の玉だぜ。

 

ほんとうに折口の文章か?と疑いたくなる生の熱さがあって、ビックリだ。

 

本書『口訳万葉集』上巻は、巻第一から巻第七までの1417首を収めている。

なにか別世界を感じさせる万葉集
※さすが『死者の書』の作者!、と言ってしまって、感心するだけなのはさすがに勝手すぎるか…

文芸評論家持田叙子の折口に対する全面降伏気味の解説もなかなか味わい深い。

ほかには、スピード感を維持して読みすすめることもできたためもあってか、大伴一族の万葉圏での圧倒的な権勢を感じとることができたのが私にとっては大きかった。歌の才能としては、家持よりも一世代上の旅人と坂上郎女が上というか本来的であることも上巻ではよくわかる。また家持がモテ過ぎなのには、不公平感が募る。

www.iwanami.co.jp

【付箋歌】
24, 46, 61, 64, 82, 101, 144, 172, 231, 277, 299, 338, 341, 351, 442, 451, 465, 555, 559, 592, 644, 704, 719, 729, 738, 793, 804, 881, 885, 893, 897, 961, 978, 1018, 1080, 1175,  1203, 1285, 1336, 1352, 1411

折口信夫
1887 - 1953

参考:

uho360.hatenablog.com

uho360.hatenablog.com