光文社古典新訳文庫の斉藤悦則の新訳(2016)もあるらしいが昔からある中川信の訳で『寛容論』を読んだ。
不寛容が拡がっている世の中で、あらためて読み直されている古典、らしい。
カソリックとプロテスタントの対立が長くつづいていた18世紀フランスに起こった、少数派プロテスタントに対して起った冤罪事件「カラス事件」に対する告発と名誉回復のための書。
いま読んで役に立つかどうかは実際のところよくわからないけれども、義憤に駆られ老いてなお行動するようなヴォルテールの熱さには頭の下がる思いがした。
対立する人との共存は、狭いスペースでわざわざ向き合って融合しようとするよりは、棲み分けて摩擦がなるべく起こらないようにするのがいいんじゃないかと思う私は、腰の引けた対応での活路を見出したいタイプの人間である。余裕がなくなっていくからこそ、不寛容になるという流れは、日々の生活のなかでじわじわと感じてきてはいるのだが、争わないで済む領域をさがして、そこに撤退しながら開拓あるいは維持復興に努めるというのも有りではあるだろう。
ヴォルテールの『寛容論』も、対立から起こってしまった不幸な事件に対して憤りを見せるものの、より根本的には対立抗争を生まないような距離の取り方、争点化しないための大局的で非強制的な対立構造の不活性化に、より重点を置いて語っていると思うのだが、どうだろうか。
民衆が無知で衝動的であるとき、自分たちの貧困の政治的、経済的な真の理由を理解しようとせず、自分たちの不幸をなにか神秘的原因のせいにしたがるものである。(中川信「解説」より)
「怒りの捌け口」を見つけようとする衝動は捨てよう、という主張を含む訳者の40ページを超える解説も読みごたえがある。
ヴォルテール
1694 - 1778
中川信
1930 - 1991
参考: