読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

アラン・バディウ『思考する芸術 非美学への手引き』(原書 1998, 坂口周輔訳 水声社 2021)


訳文の中に出てくる「免算」という見慣れない語彙に引っ掛かった。

「免算」だけでは検索でヒットしなかったので、「免算 数学」と「免算 バディウ」で検索したところ、科学研究費助成事業データベースに導かれていった。

アラン・バディウの数学的存在論と出来事の論理

https://kaken.nii.ac.jp/en/report/KAKENHI-PROJECT-21520033/215200332009jisseki/

※『存在と出来事』(既訳あり)よりも『世界の諸論理』(未訳)のほうが、バディウの「世界における出来事と主体化の論理」に係る思考の成果として優れているということを示唆している研究成果のPDF文書が読める。

 

免算(soustraction)。

soustraction単独で調べると、フランス語で引き算、減法のこととあるのだけれど、それをわざわざ「免算」と訳すのは、「計算」とのカップリングで理解しなければ意味をなさない概念として用いられているためであるのだろう。

本書『思考する芸術 非美学への手引き』は、哲学は数学的に計算可能なものを扱い、詩は名づけえぬものに名を与える言語の限界にかかわる潜勢力を持っているという論点から、芸術を論じた論文集。芸術として、詩、演劇、映画、ダンスが論考の対象として挙げられているが、ダンスと映画と戯曲についての論考は、マラルメランボーの詩についての論考と、戯曲のト書きの極限形のようなベケットの後期テクストをめぐる論考に比べて、やや弱い。それからペソアの複数人格による「多の偶然性」や「異名性」が、マラルメの「書物」の「匿名性」を凌駕しているという主張も俄かには受け入れがたいものがあるが、全体的に教えられることのほうが多い。ハイデガーが詩を論じる時よりも、乾いた論理があり、透明性が高いのも好ましい。

本格的に論じられているのは、マラルメの『骰子一擲』と『半獣神の午後』とベケットの『いざ最悪の方へ』で、バディウの論考に誘われて読み返したくなるくらいの内容は持っている。一解釈を知った後で読み返してみると、マラルメベケットも、より親しみやすく読みすすめることができるものの、やはり言語の極限に迫るところで書かれたテクストの凶暴性は、なくならない。日本語訳されていても、なくならない。読んでしまったら忘れられず、憑りついてくるような言語は実際あって、一面では大変困ってしまうのだが、ショックを受けるようなものを探しながら読んだりもする読書という綱渡りの芸当から自由に降りることは難しい。

ゲーデル以来私たちは、整合性がまさしく数学の名づけない点であることを知っている。数学理論にとって、自らに固有の整合性をもつ言表を真実として確立するということは不可能なのだ。
もし今、私たちが詩の方を向くなら、詩の効果を性格づけるのは言語そのものがもつ潜勢力の顕示であるのが分かる。どんな詩でも言語のなかにもたらすのは、現われるものの消滅を永遠に固定する力、あるいは、<観念>の消滅を詩的にとどめておくことによって、<観念>としての現前そのものを生み出す力である。
(第2章「詩とは何か、それについて哲学は何を思考するのか?」p54-55 太字は実際は傍点)

「力」は、なにものかを変形する「力」でもあるので、時と場合によっては危険なものであったりするのだが、毒にも薬にもならないようなものばかりで満足できるわけでもないのが難儀なところではある。

www.suiseisha.net

【付箋箇所】
38, 42,49, 53, 55, 56, 59,62, 72, 79, 83, 92, 103, 105, 172, 180, 189, 190, 194, 201, 206, 211, 214, 222, 268

目次:
第1章 芸術と哲学  
第2章 詩とは何か、それについて哲学は何を思考するのか?  
第3章 フランスの哲学者がポーランドの詩人に応答する  
第4章 一つの哲学的使命――ペソアの同時代人であること  
第5章 詩的弁証法――ラビード・ブン・ラビーアとマラルメ  
第6章 思考のメタファーとしてのダンス  
第7章 演劇に関する諸テーゼ  
第8章 映画の偽の運動  
第9章 存在、実存、思考――散文と概念  
第10章 半獣神の哲学  

アラン・バディウ
1937 - 
坂口周輔
1980 -

参考:

uho360.hatenablog.com

uho360.hatenablog.com