読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

上田三四二『西行・実朝・良寛』(角川選書 1979)

『この世 この生 ― 西行良寛明恵道元』に先行すること5年、上田三四二、56歳の時の刊行作品。醇化しまろやかになる前の荒々しく切り込んでいく姿勢が感じられるのは、壮年の心のあり様がでたのであろうか。語りの対象と同じく歌に生きる者の厳しい批評眼は、批評を書く自分自身にも向かっていることもあって、緊張感のあるスタイルとなっている。『この世 この生』ではそれぞれが身もだえの果てにいたりついた現世浄土のようなものを鮮やかに浮き上がらせていたのに対し、本書『西行・実朝・良寛』では各歌人の根底に蠢いている身もだえそのものに焦点を当てているような印象も持つ。特に実朝については、透体を得ることなく、煩悶のうちに亡くなった人物であって、身もだえの様相がことさら迫ってくる評伝にもなっていた。

「現とも夢とも知らぬ世にしあればありとてありと頼むべき身か」を含め、金槐集の釈教歌七つを畳みかけるように引用した後で実朝の心のうちを次のように述べたところなどが本書の雰囲気をよく伝えてくれるのではないかと思う。

世にあり経ることを夢と観じ去ろうとする希求のはてに、はたして悟達の光が見えたとも思われないのであるが、情念よりは倫理に、倫理よりは形而上への道を辿って、必死に憂悶をなだめようとする若い将軍の痛々しい姿だけは、まぎれずここに映し出されている。秀歌を得ようとする詩人の気負いは微塵もなく、ひたすら無常観の徹底を通して絶望の克服に立ち向かう、中世の一知識人の胸のうちが、深い空洞をみせて開示されているのである。
(「実朝」p106-107)

その人でなければ歌えない歌を読むことで、心動かし、痛ましくも美しい表現に憧れてしまうという、文芸の業の側面も、見事にとらえている批評作品であろう。

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【付箋箇所】
12, 28, 38, 51, 80, 90, 126, 129, 136, 140, 150, 152, 156, 158, 180, 161, 164, 169, 174, 176, 177, 186, 199

上田三四二
1923 - 1989