1958年から1968年までノーベル賞候補にもなった西脇順三郎の1963年刊行の筑摩版全集編纂時の未刊行詩篇を集めた詩集。拾遺詩篇という範疇にあるにもかかわらず、一篇一篇の質の高さと、詩人の内なる詩魂の一貫性が読み手に伝わる一冊となってる。
西脇順三郎生前の全集も刊行されていた筑摩書房に1978年まで在籍していたもう一人の日本の偉大な詩人、吉岡實との関係を含めて、一冊の書物として、かぎりない美しさをたたえた一冊であるといっても良いと個人的には思っている。
翻訳されたのちの西脇順三郎の世界レベルでの魅力については、はっきり言って私にはよくわからない。ノーベル文学賞の対象から外して差し支え無しという提言を行ったドナルド・キーンの意見にも、まあ妥当な判断だと同調しもする人間である。
ちなみにノーベル文学賞受賞作品は、1968年度は川端康成、1969年度はサミュエル・ベケット、1970年度がアレクサンドル・I・ソルジェニーツィン、1971年度がパブロ・ネルーダ。文学が全開だった時代だともいえそうだ。
ただ、日本の漢字かな交じり文、旧字新字の交じる日本語を完全には捨てない出版環境下における西脇順三郎の詩作品は、日本という特殊な閉域にあって、怪物的な相貌を見せる。
たとえば「茄子」、あるいは「うどん」。
西脇順三郎的曲面と反映の世界を象徴する色濃い生命体としての「茄子」は、日本語の表記体系においては少なくとも三つの層を貫いている何らかの接触対象である。漢字の茄子、ひらがなのなす、カタカナのナス。異なる書字記号が喚起する異なるイメージ、異なる曼荼羅的配置における意味。
茄子、ナス、なす。
それぞれが宝石に匹敵する輝きを宿すことを西脇順三郎の詩は語る。
言葉は、記号という表象に輝きを感じてしまう人間というものを惑わし、かつ、導く。
いったん知ってしまったならば逃れられない連関の豊かさと残酷さ。
日本人であったら一度は触れておいた方がよいと思える詩人の言葉。
目次:
コップの黄昏
イタリア
イタリア紀行
ローマの休日
写真
くるみの木
椀
きこり
茄子
坂
まさかり
記憶のために
すもも
エピック
崖の午後
バーの瞑想
雲のふるさと
宝石の眠り
西脇順三郎
1894 - 1982
吉岡實
1919 - 1990
参考: