読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

古井由吉『詩への小路 ドゥイノの悲歌』(初出「るしおる」1997-2005, 書肆山田 2005, 講談社文芸文庫 2020)

内向の世代の代表的小説家、古井由吉の六〇歳代の九年間にわたって詩誌「るしおる」に連載されていた、本人による訳詩を含む詩に関するエッセイ二十五回分の集成。ドイツ語、ドイツ文学の大学教師をやめて執筆活動に専念した古井由吉が、詩人たちの「晩年の詩」ということを念頭に綴っていったであろうエッセイ形式の文章。著者の言葉を借りると、古今の詩の「棒訳」をうちに含んだ「試文」集成ということになる。連載十六回目から十回にわたって続けられた「ドゥイノの悲歌」全篇の改行なしの試訳が中心をなしている仕事ではあるが、そのほかにも夏目漱石漢詩に関する文章、マラルメの登場回数の多さなどにも、古井由吉の核にあるであろう嗜好がうかがえて、いろいろと興味深い。一九七〇年、三十三歳で八年間続けた大学教師をやめて、その後執筆一本でやってきた人の全経験を、引用対象となる詩とともに再検証している趣きもあり、非常に濃密な文章体験をもたらしてくれている。リルケ漱石マラルメ以外にも、日本ではあまりなじみのない詩人も含めて、相当読みごたえのある詩人たちが独自の視点を加えて取り上げられている。ゲオルゲヴァレリー、ソフォクレース、アイスキュロス、ダンテ、ヘルダーリン、シラー、ボードレール、グリンメルスハウゼン、グリュウフィウス、ドロステ=ヒュルスホフ、ヘッベル、マイヤー、メーリケ、シュトルム、ケラー、クライストなど。エッセイのながれのなかで無理なく紹介され関連づけられつ各詩人の詩作は、案内解説付きのアンソロジーを読んでいる気にさせてくれる。

著者によるあとがきにあたる文章のなかで、コンラート・フェルディナンド・マイヤーの詩「おさめた櫂」のなかの詩句を「苦しみのない今日が流れ落ちる」と訳したときの心持ちの危うさを語っているのだが、その第三回の連載「晩年の詩」のマイヤーの詩にいたる前段で、ボードレールとヘッベルを語るところの文章は、次のようなものである。

静かな光を浴びながら枝々からひとりでに降る果実は、それ自体は凋落であっても、秋の日の光景の全体としては、中年の飽和を表している。穫り入れの祭りの日という表現も、老年のそれではない。差しているのはあくまでも陽光であり死の影ではない。しかし天気晴朗のもと、人がおのれの寿命を、何時までの命ということではなく、いまこの時に感じることはありそうだ。予感ではなく現在の感覚である。
(3「晩年の詩」 講談社文芸文庫 p40-41 )

晩年や死をめぐっての考察に向かうことの多い古井由吉の文章は、基本的に陰鬱で、低体温の不活発な様相をもって展開するものであるのだが、その冥界にも通じていそうな感性の根本にある芯の硬さは本格的なもので、真を突いているという信頼の感覚がもてる。そして、それと同時に、その様相の特異性によって、陽性の諧謔味を感じさせもする。それ以外にはないであろう、ぎりぎりの底の感覚に触れつつ書いているにちがいないという、変な信頼感や安心感がある。

本書のメインとなる『ドゥイノの悲歌』全訳も、小説家でありドイツ文学翻訳家でもある古井由吉エクリチュール産出活動のなかのひとつの特異点となっているであろう、ひとつのまとまった仕事になっているであろうと想像される。リルケの『ドゥイノの悲歌』が、古井由吉の解釈と翻訳のパフォーマンスによって、いかなる味になるかと興味を持って接したところ、行替えなしの散文調の翻訳は、詠われている内容を伝達することに優位があるためであろうか、悲歌のたどる道筋と向かう方向性が、読み手の頭によりよく残るような解釈であり訳文となっているように感じられた。スタイルとしては散文詩のようになってはいるが、内的なリズムのようなものが逆に明瞭になっているような印象も受けた。なんというか、一読した際の情報量が他の訳文に比べて多いような感じがして、そのことをたしかめるためだけのことであっても、ほかの訳者と読み比べてみたいような気にさせる訳業であり、訳業に関わる周辺的な思いをつづったエッセイの文章であった。

実際、今現在、『ドゥイノの悲歌』に関して、手塚富雄訳と富士川英郎訳を読み返している。訳文だけに限って言えば、古井由吉の訳がいちばん詠われている内容が定着しやすい。ほかの訳者の手になるものは、訳注との合わせ技でより効果を発するような印象を今回もった次第である。

 

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古井由吉
1937 - 2020
ライナー・マリア・リルケ
1875 - 1926