読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

富士川英郎編訳『世界詩人全集 13 リルケ詩集』(新潮社 1968)

『ドゥイノの悲歌』全十歌をメインに構成された富士川英郎単独訳のリルケ翻訳詩集。『ドゥイノの悲歌』のほかには、『時禱集』から21篇、『形象集』から19篇、『新詩集』から43篇、『オルフォイスへのソネット』から15篇、『拾遺詩篇』として42篇を収める全312ページ。新潮文庫富士川英郎訳『リルケ詩集』(1963)に『ドゥイノの悲歌』全十歌を追加したような構成。

古井由吉の『ドゥイノの悲歌』の散文詩訳に誘われて、手持ちの岩波文庫手塚富雄訳『ドゥイノの悲歌』(1957)と富岡近雄訳『新訳リルケ詩集』(2003)以外の訳業を探して、まず手に取った一冊。個人的な印象では、富士川英郎の訳がいちばん渋滞なく読める。ただこれはドイツ語原文を読めない人間が言うことではないのかもしれないが、古井由吉の訳とともに、訳文に訳者の解釈が入って変形されている訳のようであり、富岡近雄とともに、日本語のどちらかといえば散文よりの読みやすさや意味の取りやすさに配慮した訳であるようなので、心地よく読みすすめることができるあまり、詩句を読むには速度過剰で、読みとばしてしまうがゆえに微細な展開が記憶に残りづらいという、功罪の罪の部分を気にしたほうがよい訳業であるかなという印象を持っている。


たとえば、『ドゥイノの悲歌』第七歌、原詩46から49行の各訳者の訳を並列して比較してみるとこうなる。

 

【訳者:古井由吉

ただしわれわれは、隣人が微笑みながらしかし請け合ってはくれなかったことを、あるいは妬んで言わずにおいたことを、とかく忘れる。この上もなく明らかなはずの幸福がそれでも、われわれがそれを内で変化させるのを待ってようやく、われわれの前にあらわれる、その機を明らかに挙げて示そうではないか。

【訳者:手塚富雄

ただわれわれは、笑いさざめく隣人たちが
承認してはくれぬもの、うらやんではくれぬものを忘れやすいのだ。疑いようのないものとして
われわれは隣人たちに承認された幸福を高くかかげようとする。疑いようのない幸福が
われわれに顕現するのは、ただわれわれがそれをわれわれの内部において変化さすときだけなのに。

【訳者:富岡近雄】

ただ、私たちは隣人が笑って 私たちに保証したり
あるいは羨んだりしてくれないものをすぐに忘れてしまう。眼に
見えるように私たちはそれを手に取ろうとする、しかし眼に見える幸せは、
私たちがそれを内部で変容するとき、初めて認識されるのだ。

【訳者:富士川英郎

ただ私たちは 笑っている隣人が私たちに保証したり
羨んだりしないものは すぐに忘れてしまう 私たちは幸福を
眼に見えるものとして掲げようとする 最も見えやすい幸福は
私たちが内部でそれを変形するときに 初めて認められるものなのに

 

さらにネットを使用して比較を進めると、以下につづく。

 

【原文】

Nur, wir vergessen so leicht, was der lachende Nachbar
uns nicht bestätigt oder beneidet. Sichtbar
wollen wirs heben, wo doch das sichtbarste Glück uns
erst zu erkennen sich giebt, wenn wir es innen verwandeln.

【訳者:Google先生

しかし、私たちは笑っている隣人が何であるかを簡単に忘れます
私たちを肯定したり羨ましがったりしません。見える
最も目に見える幸せが私たちのためであるときにそれを上げましょう
内部で変換した場合にのみ認識できます。

【訳者:Edge先生】

ただ、私たちは笑っている隣人をとても簡単に忘れる
私たちを確認したり、うらやましく思ったりしません。目に見える
最も目に見える幸福が私たちであるときに、私たちはそれを持ち上げたい
私たちがそれを内部に変換するときに自分自身を認識するだけです。

 

翻訳エンジンもだいぶ頑張っているけど、まだ文芸作品鑑賞可能レベルまでにはなっていませんね。それから、翻訳エンジン訳と比較したら、実際は、富士川英郎は意外と逐語訳で、手塚富雄のほうが詩的解釈を豊富に取り込んでいるということが分かりました。原文を読めない人は、訳文についてやたらなことは言わないほうがいい、ということを再確認できるくらいには、翻訳エンジンが進化していることも知ることができました。

個人的に、あえてやらなくてもいいことをやってしまった感があって、恥ずかしさもあり、文体もですます調になってしまっています。

それでも、手塚富雄訳の詩的解釈は、詩文の強調点を明確かつ日本的に盛っているところの芸は流石で、訳業として立派なものだと思わずにはいられません。古井由吉の行替えなしの棒訳も、記憶に残るという点に関しては、一番の効果をあげている日本語訳の試みで、書き言葉における異物感に狙いをつけているのであれば、失敗とはいえない試みであります。すくなくとも今この文章を書いている私という小物の獲物は引っかかったわけですから。

西洋海外詩の訳詩集は、明治期以降、日本の詩的世界観をガラリと変えています。変わってよかったもの悪かったもの、変わらず残っているもの、消えてしまったもの、突発的に現われたもの、現われたのち消えてしまったもの、生き残りつつ変位しつづけているものなど、過去黎明期から現在に至るまでの西洋詩の訳業と、現在にいたるまでの日本語の詩作品を、ともにひたすら覗いて、本邦のポエジーの来し方と行く末を思ってみるのもいいかもしれません。まったくの無意味に終わるということにはならないでしょう。すくなくとも、自分の生の時間を使った読みの実践の影響は残り、かすかながらも読むことの伝統継承と、書かれた作品に対しての歴史的選考のひとつのフィルタとしての役割を引き受けているということはあると思うのです。

読まないのも選択、読むのも選択。

読まないものと読むもののバランスを、状況の変化に適応しつつ、たくさん読む中でとっていけたらいいなと、いま時点では考えています。

リルケの詩は、日本語訳でしか読めないけれど、もうちょっと読んでみたいなあと思っています。

 

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ライナー・マリア・リルケ
1875 - 1926
富士川英郎
1909 - 2003