読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

思潮社現代詩文庫 38『中桐雅夫詩集』(1971)「防御としての生の持続と緊張」のなかから生まれたリリカルでメランコリックな詩

自身の詩集の編集を任せるなど関係の深い長田弘が、本詩選集においても詩と詩論の選定と構成さらには作品論も担当している。また、詩人論は「荒地」同人の鮎川信夫が親愛を込めて綴っており、作品も人物も深く愛された詩人であることが伝わってくる。

年長の草野心平との酒と詩を介しての交友も、草野心平老年期の詩からすこし窺い知っている者としては、うらやましい人間関係を築きあげた人物と映るのだが、中桐雅夫本人の生の感触としては、全般的には茫漠たる荒野が拡がっているようなのである。

その心象に関しては、はたから見ればずいぶん贅沢である反面、昭和初期の戦乱の季節で失ったものの大きさも想像の及ばないことも多くあるのだろう。太平洋戦争に向かう時代の国家総動員法下の言論統制と徴兵されることへの恐れと切迫感、一元的な暴力機構への反撥と恐怖が渦巻く哀切極まりない堀田善衞の『若き詩人たちの肖像』の世界にも深く係った人物である中桐雅夫。実際の作品に触れると、実人生では無頼で破天荒な行動に出る姿が印象に残るものの、経済と政治の大きな流れに翻弄され、かろうじて抵抗を試みている繊細な心の持ち主の弱さとともにある矜持が伝わってくる。

みんな目的と確信をあり余せているから
おれは行先を考えずにとぼとぼ歩こう
自信のないことがおれの唯一のとりえだ
おれは強いものや激しいものから離れていよう
(「こんな島」部分)

そうだ、確信を持てないということこそ、生きている証拠だ。
口いっぱいの土が水になるかもしれない、
「絶望の虚妄なる、まさに希望とあい同じ」だ。
(「秋の遍歴」部分)

好まず遍歴するのがこの生。有無を言わさぬ主流の暴力に掉さすことに意義を見出しつつも、その立ち位置と立ち方を芯から誇ることはできない懐疑検証の精神が積極的発言とともに韜晦を突き動かしている。私の精神が揺れているがゆえに、身体と心を揺らしてくれるアルコールで打ち消そうという試み、負の色を帯びた習慣も生まれる。

正しいとは思えない世界のなかで、詩という別世界、現実世界から撤退して態勢を立て直せるかもしれない世界に身を押し出そうとしながら、実世界に囚われてしまって抜け出せない弱さが中桐雅夫にはあるように思うのだが、その弱さは、何かしらの思いを持って到達できずにいる人の弱さの純化された形態のようでもあり、関わってしまうと愛おしいと思わずにいられない質のものである。

「確信を持てないということこそ、生きている証拠だ」という確信を、どのように固定化せずに展開するのか。世界とどのような距離をとって、私という現象とともに「行先を考えずにとぼとぼ歩こう」と思い実行しつづけることが可能なのか。解答はないが、中桐雅夫の詩作の歩みが、その解答を念頭に置いての試行であることは間違いない。

「目的と確信」に対する「自信」を放棄した後に見えてくる、信じてもよいかもしれない、頼ってもよいかもしれない、頼りないが確かな光源。おそらく「孤独」と「寂しさ」の人間的本源に関わる内外のバランス、協働と独立、創造と保守の関係を、固定せずに検討しつづける精神のゆらぎ、なぜ問いが起こるのかという問いを問い、問い生み出す根幹の活動。そこに詩作の焦点は当たっているだろう。

固定した答えはない。分からぬまま、動く。動きによって生ずる摩擦を感じる感受性と、摩擦を予測するすこし過剰な想像力が、人の想いを加速させ減速させ、動揺させる。「確信を持てない」詩人にとっては、過酷な試練の時がつづいたのだろう。中桐雅夫の詩作は、その試練の時が、ナマな状態に近いままに定着された、貴重な資料なのだと思う。痛ましい側面が多いのかもしれないが、愛されていることで救われているとともに、より厳しい眼で批判的に継承されていることで救われている詩魂がうかがわれる。

事物の具体性とは、詩人の主体において引き受けられたその経験の直接性にほかならぬ。こうして中桐は、事物を経験のうちに、経験と事物のあいだに引用する独自の方法的態度をみいだした。
長田弘「中桐雅夫詩論」より)

中桐雅夫の詩作の姿勢を引受けつつ、自身固有の詩的展開をなそうとしている1971年の長田弘は、このように先達を評価している。この後に引かれた中桐雅夫の「あすになれば死ぬ言葉」という詩のなかの一節は、こうだ。

僕は眼の前の二本の箸が、すごい二行詩であると直感した。
死者の体をはこぶ二本の手、
死者の体を踏みつける二本の足のような詩だ。
(「あすになれば死ぬ言葉」部分)

長田弘によれば、この詩作が成った時期、「中桐雅夫は、その<自然>像を存在の日常性のなかに嵌入された明らかさとして改めて確認し、そうすることによって、自己の詩が包摂していた意味と語法とのあいだの撞着をのりこえた」とされる。「つくられた自然」から、事物に即した確かな個物の「自然」を詠う詠法への変化。

そういう解釈はかなり妥当性のあるものかもしれないと思われる。それというのも、思潮社現代詩文庫『中桐雅夫詩集』において、いちばん衝撃的な文章は、長田弘による中桐雅夫の作品論であるという印象による。この作品論は、中桐雅夫も属した戦後の中心的詩誌である「荒地」の同人(鮎川信夫田村隆一北村太郎、木原孝一)たちの詩作と比較しながら中桐雅夫の散文的な特質を論じたもので、戦後詩の中心的役割を担った「荒地派」を構成する各詩人の動向を見事に腑分けしている感がある見事なエッセイとなっている。このくらいのレベルの論文が多数出てくれば、日本近代詩の学問的に堅固な領土確立も望めるのではないかと、外野席から期待もするのである。

思潮社現代詩文庫の『中桐雅夫詩集』は1971年刊行で、著者50歳くらいまでの作品集成となっている。作品数のそれほど多くない詩人の詩選集であれば主要作品はほぼ網羅しているであろう。本書刊行後の生前刊行詩集も『夢に夢みて』(1972)と『会社の人事』(1979)という、若くして晩年を意識した詩作が多いところも、詩人の歩みの特徴であるだろう。

詩誌「荒地」「歴程」で活動した詩人たちの交流に思い致すうえ欠くことのできないキーとなる詩人であるとともに、全体状況からすれば最後まで繊細過ぎたのかもしれない、心優しい悩み多き詩人の姿が浮かび上がってくる。

今現在における評価の正否は別に、最後まで詩作をつづけられたことについては、詩人としての本望が遂げられてよろこばしいことではあると思う。アルコールに呑まれつつ、呑みとおし、詩作した詩人。


中桐雅夫
1919 - 1983
長田弘
1939 - 2015
堀田善衞
1918 - 1998

参考:

uho360.hatenablog.com

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