読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

彌生書房 世界の詩36 田村隆一編『草野心平詩集』(彌生書房 1966)

草野心平の七九歳から八十歳にかけての詩を収めた詩集『玄天』(1984)で何かに撃ちぬかれたような感覚を持ってから、草野心平の詩選集を複数入手して、順次浸っている。本書は一世代後の「荒地」を代表する詩人田村隆一が、1966年という時代において選出した、草野心平壮年期までの、まだまだ息詰まる状況で呻吟していた時代までの詩選集。扉絵の著者の写真も、まだ総髪黒々としているころのもので、衰えなど全く感じさせない時代のものである。

収録作品は処女作『第百階級』(1928)から『マンモスの牙』(1966)までの、晩年の驚異的な創作活動にいたる前の、全世界に対峙した精力を保った生々しい身体を背景にした、どちらかといいえば直線的な抵抗の実践として括られるような詩作品で占められているように思う。

戦後の詩人に分類される編者田村隆一は、戦前から基本的な姿勢のかっわらぬ詩人草野心平に対して以下の評言を残してる。

この詩人の稀有の活力とユーモア感覚が、アナーキズムの詩人によく見られる粗野な絶叫や暗い詠嘆、未熟なニヒリズムを全面的に追放して、根深い飢餓感を『詩』の表現にまで高めている点に、読者は注目しなければならない。

暗黒を呑み込んだうえでのユーモアの表出。絶望と隣り合わせかもしれないが可笑しみの消せない世界に対するメタレベルを失わない感覚。たとえば以下の詩句のなかにも、記号と音韻の独自性をもって詩として表現された感覚を察知することができると思う。

 

この俺は。
十七たびも死んできた。
無尽無限の虚無のなか。
今日また俺は死んでゆく。
銅鑼はごんごん。
俺の念仏。
酒は満満。
死出の盃。
(「牡丹園」部分 1948出版)

 

破れかぶれのなかから生まれた言葉の可笑しみを帯びた哀しみ。

「無尽無限の虚無のなか。/今日また俺は死んでゆく。/銅鑼はごんごん。/俺の念仏。/酒は満満。/死出の盃。」

死にながら生きつづけ、詩を書く詩人のあり方が、まだ忘れがたく逃れがたい戦後期の葛藤のなかで開示される。その動揺は世紀をこえてじんわりと響く。彫琢された詩句の異人性を核として、長く執拗に魅惑するとともに、警告を発しつづけている。

反応は託された状態で、開いたままだ。

 

草野心平
1903 - 1988
田村隆一
1923 - 1998

 

参考:

uho360.hatenablog.com

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