読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

入沢康夫編『草野心平詩集』(岩波文庫 1991)

日本近現代詩において視覚詩とフィクション形態の連詩という観点からみると、岩波文庫草野心平の詩選集の編纂したのが入澤康夫岩波文庫の表記は新字だけれど旧字の入澤康夫のほうがしっくりくる)だということに大いに納得がいった。宮沢賢治の研究評価を含めて、入澤康夫草野心平の直系と言っても間違いではないだろう。同じ詩誌「歴程」の同人ということであってみればなおさらだ。いちばんの違いは、呑み屋の主人と大学教授という、生計の資を得るために選択した職業の方向性の違いで、それに加えて、戦争を挟んでの詩作を左右する時代的状況の違いであるだろう。土と生きものの匂いのする詩風と書斎と伝聞伝説の文物の匂いのする詩風。個人の資質の違いはもちろんだが、年代差や時代感覚の違いは視界に入れておいて悪いものではない。

入澤康夫の詩論と詩は今でも有効な力を持っているという想いはあるのだけれども、『入澤康夫〈詩〉集成 1951-1994』上下二巻本は今年五月の引っ越しの際に読み直してから捨ててしまったし(その代わり未読の『宮沢賢治―プリオシン海岸からの報告』はまだ手許にあるし、全集か全詩作といった本がそのうち出るだろうという期待も持っていはする)、先日もライトヴァース詩集『キラキラヒカル』を読んでもいまひとつピンとこなかったこともあって、ブログ上の記録にも残さないままとなっていて、入澤康夫という詩人は私にとってはあまり相性がよくないかもしれない詩人ではあるのだが、今回の草野心平の詩選集編纂の仕事を通して、なんだかグッと身近になった気がした。おそらく入澤康夫と比べれば草野心平のほうがずっと好きな作風だということに揺るぎはないのだけれど、草野心平1903年生まれ)から入澤康夫(1931年生まれ)へという歴史的な緊張関係や展開については改めて検証してみたいという気を起こしてくれもした。

いまさらかよという方もたくさんいらっしゃることは承知しているが、今年読んだ日本の詩人の中で衝撃的だったのは、前世紀初頭から活躍している西脇順三郎草野心平の二人。ともに老境に入ってからの汲み尽くせぬ創作力と創作物と、そこから反照される初期作品や壮年期作品にも脈々と流れる一貫してゆるぎない詩心の核心部分が、読み手に刻印として刻まれるような強さをもって迫ってくる。同じ日本語を読み書きする者であれてよかったと思うとともに、さて、いなくなってしまった詩人の後の世界をどう受け止め、どのように繋いでいったらよいのかという戸惑いが浮かび上がってきたりもする。本を読むという行為には、書くことの反復を暗黙的に要請されるという危険性が付きまとってくるから厄介だ。反復はきっぱり諦めて受容に徹するにしても、受容の仕方に工夫がいるだろう。受け取るばかりだと負債感情の澱みにはまって息を継ぐのが大変になってしまう可能性もある。とはいえ、まだ両詩人とも読みはじめたばかりなので、ひととおり読み通してみないことには次のステージははじまらない。

岩波文庫版『草野心平詩集』は60年以上に及ぶ詩人の活動期間全体から選ばれたもので、詩人の全体像を読み手に結びやすくしてくれている。特徴的なのは『第百階級』と『富士山』を全篇収録しているところ。構成は以下のとおり。

『第百階級』(1928) 全篇
『定本蛙』(1948) 10篇
『第四の蛙』(1964) 4篇
『明日は天気だ』(1931) 3篇
『母岩』(1935) 4篇
『絶景』(1940) 12篇
『大白道』(1944) 2篇
『日本沙漠』(1948) 5篇
『牡丹圏』(1948) 5篇
『天』(1951) 4篇
『マンモスの牙』(966) 9篇
『こわれたオルガン』(1968) 3篇
『太陽は東からあがる』(1970) 4篇
『侏羅紀の果ての昨今』(1971) 2篇
『富士山』(1943) 全篇
『凹凸』(1974) 9篇
『全天』(1975) 4篇
『植物も動物』(1976) 2篇
『原音』(1977) 3篇
『乾坤』(1979) 4篇
『雲気』(1980) 3篇
『玄玄』(1981) 2篇
『幻像』(1982) 2篇
『未来』(1983) 3篇
『玄天』(1984) 2篇
『幻景』(1985) 1篇
『自問他問』(1986) 2篇

『第百階級』(1928) の巻頭言から、虐げられてもいるがいちばん自然に近く生き抜いているものたちにシンパシーを感じている詩人の姿が感じ取れる。その姿勢は生涯一貫して変わらなかった。

蛙はでつかい自然の讃嘆者である
蛙はどぶ臭いプロレタリヤトである
蛙は明朗性なアナルシスト
地べたに生きる天国である

優しいアナーキストである詩人は、老境に入ってからは自身も「地べたに生きる天国」に住まうように土地を開墾し野菜を毎年作るようにもなっていった。

百姓という言葉はいい言葉だ。
一人で百の姓をもつ。
その豪儀。
その個と。
連帯。
(『植物も動物』より 「百姓という言葉」部分)

「その豪儀。/その個と。/連帯。」これは日本語というフィールドにおける百姓として様々な詩をつくりあげた詩人草野心平を称えるのにもまったくもって相応しい言葉である。「いい言葉だ。」

 

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草野心平
1903 - 1988
入沢康夫
1931 - 2018 
西脇順三郎
1894 - 1982

参考:

uho360.hatenablog.com