読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

コンラート・ローレンツ『行動は進化するか』(原書 1965, 日高敏隆+羽田節子訳 講談社現代新書 1976 )

現代的な心身問題についての議論では、生物学と生態学に携わる人々の観察をベースにした業績を抜きにしては語り得ない領域がほとんどであるということは頭に入れておいていい基本的な事象である。一次資料となる観察をおろそかにしては客観を目指す科学は成り立たない、ということを確認することが可能だということを知るための導きの糸として存在しているという、本書は稀な書籍である。万人向きではなく、どちらかといえば生物学専門職の研究者に響く言葉であると感じる。

訴えるところの多い最終章「剥奪実験の価値と限界」の章は、研究者向けの言及に終始していて、一般読者層は多少なりとも置いてけぼり感を感じるのであるが、その非充足感がかえって生態学の意味合いや、科学的言説を提示するための慎重さについて言及していて、容易な意見表明に再考を促すような力を持っている。「生得的」なものであるか、生後の「学習」による成果なのか、実験による区分けに対する意見は専門家にとってはかなり厳しい提言になっているし、私たち一般読者にとっても、学問的に難しい問題があるということの啓蒙によく役立っている記述が多いという印象を受ける。

そうした生命活動に関する記述の中で、生体的エネルギー消費の効率にかかる「慣れ」に関する考察は、生命体であるわれわれ自身の在り方を照射するばかりでなく、あるべき方向性を垣間見させてくれていることで、きわめて希少な可能性のようなものを感じさせてくれているように思う。

慣れが、本来なら反応をひきだすものの、生物学的に適切でない刺激に動物がいっつまでも反応しつづけないですむようにするということは、たしかに重要なことです。鳥は本来動くものや新奇なものに対してはすべて逃避反応を起こすので、もしたえずくり返されるこの種の刺激に慣れが生じなかったとしたら、まったく休む間もないことでしょう。(中略)慣れのじつに驚くべき機能、そしてそこにこそ生存価の認められる機能は、他の刺激に対する反応を減少させることなしに、しばしばくり返される生物学的に不適当な刺激に対する反応を除去することです。
(「現代エソロジストの見解に対する批判」p96-97)

「慣れ」は基本的には悪いことではない。むしろ効率の観点からは断然褒むべきものである。「慣れ」、それは、基本となるべきもの、基礎としてあるべきものであるだろう。「慣れ」に慣れることで、しっかりとした地盤に足がかりをつくり、多少の自由の地を開拓するというのが、「冒険」や「挑戦」の基本的なかたちとなるのであろう。

コンラート・ローレンツ
1903 - 1989
日高敏隆
1930 -     2009
羽田節子
1940 -


参考:

uho360.hatenablog.com