妙法蓮華経安楽行品第十四に「一相」という言葉が出てくる。その後注意して法華経後半を読みすすめていたがおそらくここだけに使われている言葉ではないかと思う。
一切諸法 空無所有 無有常住 亦無起滅
(中略)
観一切法 皆無所有 猶如虚空 無有堅固 不生不出 不動不退 常住一相
大角修の訳
一切諸法は空にして所有(しょう)なし。事物は実体をもたず、固定して存在するものはありません。
常住あることなく、また起滅あることなし。常に変わらずにあるものはなく、生じたり消滅したりするものでもありません。
(中略)
一切の法は所有なきこと虚空のごとし。事物は空そのものの広大さのなかにあります。
生ぜず、出でず、動ぜず、退せず。常住にして一相なり。個別に生起して変化し消滅していくものではなく、大きな等しさのなかで常に変わらずにあります。
漢文を探して対応させてみると「大きな等しさ」とされているところが「一相」にあたるのだろうが、私は漢文のままの「一相」に目を引かれた。本書と並行して読んでいた江川隆男の『アンチ・モラリア』と『すべてはつねに別のものである <身体-戦争機械>論』のためかドゥンス・スコトゥス-スピノザ-ニーチェ-ドゥルーズ-江川隆男と流れている「存在の一義性」の哲学と法華経の「一相」が接続できるかどうかパッと気になったためだ。
法華経の「一切諸法」の「一相」を無理やり云いかえれば、スピノザなら「神即自然」、ニーチェなら「永劫回帰」、ドゥルーズなら「差異と反復」、江川隆男はドゥルーズとアルトーを経由した「<強度=0>の器官なき身体」になりそうではないだろうか。もちろん違いは大きくありそうで、スコトゥスはちょっと不明だが哲学系の人びとの概念には「身体」や「欲望」の肯定があり、仏教側は囚われるなという意味でどちらかといえば否定に傾いている。21世紀の今、成仏ということにあまり囚われなければ諸法のなかで生成消滅が反復されるということで似たところもあるように思った。
ほかに違いとしては、心身並行論がある。スピノザから明確に唱えられはじめた心身並行論は、仏教側からは絶対に出てこない発想だ。輪廻転生して魂の宿る身体が変わっても個体としての苦しむ心は変わらないというのが前提の教えだろうからだ。輪廻転生や解脱説も方便であると言われればまたちょっと考え直さなければいけないけれど。
※ちなみに、ネット上で「法華経 安楽行品 一相」で検索しても、解説してくれているようなサイトには今のところであえずにいる。「一相」というのは教義的に特に意味のある言葉ではないのかもしれない。
大角修
1949 -