読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

アンリ・ベルクソン『精神のエネルギー』(原著 1919, 第三文明社レグルス文庫 宇波彰訳 1992)

ベルクソン壮年期の多年にわたる講演論文集。精神と脳との関係を追求した思索を追うことができる刺激的な一冊。

ロンドンの心霊研究協会での講演「《生者の幻》と《心霊研究》」(1913)なども含んでいるため、妖しげな部分もある論考かと、色眼鏡をもって読みはじめたのだが、どうもオカルト寄りではない。おそらく心霊研究協会が期待しているものとも違う世界像をベルクソンは描いている。そうした印象は本書を読みすすめるなかで徐々に強くなってきた。
身体の消滅と生命の終焉の後も精神が存続する蓋然性を説く前段として、身体があり生命があるところにしか存在しない生に対する注意をもった意識の活動ということが本書ではくりかえし説かれている。生命活動としては休息期にあたる覚醒していない睡眠状態時に見る夢は、生への注意が弱まった状態での精神の運動の出力であり、弛緩した状態での比較的抑圧のない自由で流動的な身体的精神的生存価の成果主義に染まらない周辺部の活動が浮上してくる時であるようだ。ベルクソンの考えでは、身体を無くした死後の世界にも、生への注意から解放された精神が存続しないとはいえないということで、そこに心霊的な発想と親和する部分も出てきているようなのだが、生への注意が無くなっているベルクソン的死後の精神は、驚異的なまでに希薄化しながら残存している特異なものと想定される。生への注意をもたず個体としての意識も希薄な精神という相が浮かんでくる。この身体なしの精神は、生への注意を核にもつ身体ある精神よりもどちらかといえば無に近いものであるような気がする。生への注意のない精神は、生きることとは関係が薄く、生のなかで生ずる快苦にも関わる事少ないものだろう。東洋的には解脱の相なのかもしれないが、そこからもう一度生への注意に返ってこないことには、個々の生を生きる生命体には意味がない。身体なしで精神が永続してもよいのだが、それはこの生を生きているときの精神とはほとんど関係のない、別世界での運動であるのだと思う。

ベルクソンの『笑い』(1900)との関連でいうと、「摸倣」と「類似」をめぐる身体と精神の運動が多く取り上げられていることに注意がいった。

 

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目次:
一 意識と生命, 1911
二 魂と身体, 1912
三 《生者の幻》と《心霊研究》, 1913
四 夢, 1901
五 現在の記憶内容と誤った再認, 1908
六 知的な努力, 1902
七 脳と思考―哲学の錯覚, 1904

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