空海を主人公に迎えた折口信夫未完の小説『死者の書 続編』を批評的にたどり直した一冊。
未完の物語を引受けた小説を期待して読むと場違いなことに気づく。
※水村美苗の漱石『明暗』に対するアプローチとは異なる続編作家としての引き受け方を提示している。
作者安藤礼二は、折口信夫唯一の小説『死者の書』に込められた折口信夫の業、物語を紡がざるを得ない人としての業を、遅れて立ち会ってしまった先鋭なる読者、批評家として読み解き、作家が生みだし得たかも知れぬ完成作を想像し、ありうべき物語展開と結末を物語の外部の視点から再構成している。折口懸案の未完の作の主人公たる空海の名が依って来たるところの空と海との邂逅を、自身のフィールドワークによって実現させることが安藤礼二の狙いなのだと思う。
現実の生活の相を超える仏を求めるがゆえに狂い失調もする人間の思いに寄り添い、変奏するという作者安藤礼二の姿勢は極めて興味深い。熱狂と冷徹を兼ね備えた異能の憑依者として本のなかに存在している。資料を読み、読むことによって練り上げられた世界像を神々の記号に寄り添わせつつ投げ掛けてくる技は、濁りなく、無双の様相を示現している。
中原中也のランボー訳がどうしても思い浮かんでくるが、それに重ねるように折口信夫の「源氏物語論」の宿業の反復の逃れようのなさ、この世における宿命様相の悲哀の下での積極的甘受が肯定的に考察される。
また見付かった。
何がだ?永遠。
去ってしまった海のことさあ
太陽もろとも去ってしまった。
如来は本来、如去、思いを残すことなく去り、分別を超えたところで争いなく安らう境地であり、その境地を人格化し感覚可能にした想念である。如来、如去を観想するに持ってこいの自然界の事象たる日の出、日の入り。そして、その日の運動をよく見せる陸地の端のさらに突端の岬の端で、生命発現の端緒となるような地球の蠢きを感じる人間の知性と感性。生命の始源に関係しながら、人間界の社会性の桎梏にも単純には抗えない、人の世の割り切れない進展のなかでの個人の分裂状態が折口信夫の出力を駆動している。知性の伝承を主とする、モノセックスの全的継承の世界。知性のみならず身体の接続によっても強化される知恵や体制の継承。近代的な視点からは忌避されるかもしれない禁忌を、逆説的に倫理として取り込んでいた世界。反道徳としての倫理が、より身近に存在し得ていた時代の光景を安藤礼二は本書で再現しているようだ。
作品の書き方としては、折口信夫の源氏物語論における作品構造の論考が、自身の創作や人生体験において反復されていることを証するところに妙味がある。また、空海と釈超空折口信夫での空に向き合う粘度の違いと、違いを超えての語らいを描いたところに現代的な意味があるのではないかと感じた。
【付箋箇所】
8, 41, 64, 96, 119, 124, 132, 165
安藤礼二
1967 -
折口信夫
1887 - 1953
金剛遍照空海
774 - 835
参考: