読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

ジル・ドゥルーズ『フランシス・ベーコン 感覚の論理学』(原著 1981, 2002, 河出書房新社 宇野邦一訳 2016) 自由な思考、自由な表現が持つ破壊力

ドゥルーズの絵画論。哲学の自由と絵画の自由のコラボレーション。主として取り上げられるのはフランシス・ベーコンだが、ゴッホゴーギャンセザンヌ、クレー、アルトーポロック、抽象表現主義などにも言及しているところが読み通してみるとあらためて絵を見る時にかなり参考になる。D・H・ロレンスの言葉を長く引用しながら指摘している優れた画家に見られる紋切り型から抜け出す手と目の力の行使について書かれた数ページが本書全体の光源のようになっているところが美しくそして腑に落ちる。芸術家が、見えないものを見せ、聞こえないものを聞かせ、感じないものを感じさせ、言葉にならないものに言葉を与えるところに、ドゥルーズは引き寄せられていく。哲学者というよりも嫉妬しつつ歓喜する官能者、マゾヒスティックに官能し対象を称揚する倒錯的批評家といった側面が本書では強くあらわれている。論考が進むに従って学問的な落ちつきのようなものもあらわれてくるのだが、第七章くらいまでは本当に好きに楽しんで書いているような破天荒さが充溢している。『千のプラトー』でも笑わせてもらったが、本書でも吹き出してしまうようなところは何ヶ所もあった。

肖像画家としてのベーコンは、頭部の画家であって、顔の画家ではない。頭と顔には大きな違いがある。顔は頭部を覆う構造化された空間的組織であるが、頭部は、たとえ身体の突端であるにしても、身体の付属物なのだ。精神を欠いているのではなく、頭部は身体にほかならない精神であり、身体的で生命的な息吹、動物精気、それも人間に属する動物精気である。豚精気、水牛精気、犬精気、こうもり精気など……したがってベーコンが肖像画家として追及するのは実に特別な構想なのだ。顔を解体すること、顔の背後に頭部を発見し、あるいは出現させることである。
(04「身体、肉そして精神、動物になること」p35-36 )

日本的に解釈すると生々しい生気ある首に出会うことになろうか。顔ではなく首に向き合い、生死を渡り合う。セザンヌのリンゴのようなひとつの頭部、ひとつの首に、生のなかでまみえて過ごす。平穏ではあるが抑圧的なくりかえしの日々に、根源的な差異が突如
あらわれる。回避しえないような息吹や精気としての首としてあらわれる。異形ではあるが異なることから何かを触発する関係性をもった事物をとりあえず芸術と呼び、好んで迎い入れもするのだろう。

※ベーコンの絵画と、カフカあるいはベケットとのジャンルを超えた類似性を指摘するところは、ドゥルーズの独壇場といった観を呈している。

www.kawade.co.jp

 

【付箋箇所】
19, 23, 28, 33, 35, 39, 53, 60, 63, 69, 74, 118, 138, 240

 

目次:

はじめに
01 円、舞台
02 古典絵画と具象との関係についての注釈
03 闘技
04 身体、肉そして精神、動物になること
05 要約的注釈:ベーコンのそれぞれの時期と様相
06 絵画と感覚
07 ヒステリー
08 力を描くこと
09 カップルと三枚組みの絵
10 注釈:三枚組みの絵とは何か
11 絵画、描く前…
12 図表
13 アナロジー
14 それぞれの画家が自分なりの方法で絵画史を要約する
15 ベーコンの横断
16 色彩についての注釈
17 目と手
訳者解説 <図像>の哲学とは何か

 

ジル・ドゥルーズ
1925 - 1995
フランシス・ベーコン
1909 - 1992
宇野邦一
1948 - 


参考:

uho360.hatenablog.com