読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

仲正昌樹『〈日本哲学〉入門講義 西田幾多郎と和辻哲郎』(作品社 2015)

西田幾多郎善の研究』(1911)と和辻哲郎『人間の学としての倫理学』(1934)の読解講義。とりあえず両作ともに目を通したことがあるところで本書を読んだ印象では、仲正昌樹の入門講義シリーズは、対象となった哲学者やその著作がおおよそどのようなことを言っているかを伝えるのはもちろんの事、講義の受講者や講義録の読者が自分自身で深く読み返し読みすすめていくためのドアを要所要所でいくつも示す事に一貫して心を砕いている真摯さがある。的確なガイドとして、専門家であれば押さえておくべき標準的なルートや解釈のポイントを淡々と述べることを優先し、先行作品を参照しているなかで書かれていること、対象者による解釈の哲学史上での位置づけを示して、容易な印象批評や独断的な解釈に陥らないように注意を向けさせている。面白味よりも、まずは適切に書かれていることを読み取る事を重要視しているようだ。だから、巻頭の編集部からの言葉にもあるように、仲正昌樹の講義や講義録は、それ自体で鑑賞するための作品というよりも、「自分自身で考えるための”道具”になるように」配慮された控え目な道案内のような作品なのであろう。編集部を含めて本来的には脇役の意識をもった道案内側の希望は、講義に参加したものが講義対象に新たな関心を持ちはじめたところからさらに各自の読みを拡げていくということになるだろう。講義中に示された著作上での言及対称を読みすすめていったり、講義とは別に提供された読書案内を導きとして別の著作に向かったり、より広くより目配せの利く環境で、関心を持った西田幾多郎善の研究』なり和辻哲郎『人間の学としての倫理学』なりをよりよく働く作品として手元に置けるようになることが期待されている。

今回私は二つの関心を新たに持った。ひとつは、和辻哲郎という哲学者自体。個と社会の二重性を背負った人間というものを「間柄」という概念からつねに検討しようとしていた和辻哲郎『人間の学としての倫理学』と『風土』や『倫理学』などのほかの著作。もうひとつは西田幾多郎善の研究』と和辻哲郎『人間の学としての倫理学』の文体の違い。西田幾多郎善の研究』は現代語訳の対象にもなりそうなひと時代前の文体で書かれているようなのだが、その23年後の和辻哲郎『人間の学としての倫理学』は今現在私たちが使っている文体で現代語訳の対象とはならないものだ。どのくらいを境にして表現体が変わったのか少し知りたいと感じた。個人的な資質と時代的な制約が関係していると想定されるが、何らかの知見が得られれば満足出来そうだ。

私を含めて哲学学者の大半は、純粋に一つの問いと取り組み続けているいるというより、仕事として「哲学」の解説とか授業をやり続けているだけだと思うが、全く関心がなかったら、仕事としてやり続けるのさえ苦痛だろう。
(「まえがき」p2)

仕事でもない単なる読者は、それこそ何らかの関心や野心がなかったら読みつづけるのは苦痛だろう。ただ、仲正昌樹のような正統派の「哲学学者」、哲学の教育者に比べたら、読みつづけるというよりも好きなところをつまんでいるだけで、自分の読書はどんな時であれ苦痛と呼んではいけないような気がしてきた。本や論文という実をなさない代わりに、産みの苦しみも、専門家たるべき責任も持ってはいないのだから。

 

sakuhinsha.com

【付箋箇所】
2, 35, 49, 55, 87, 12, 183, 238, 250, 255, 264, 268, 277, 289, 297, 317, 321, 333, 342, 364, 379

目次:
第1回 日本哲学とは!?―西田幾多郎善の研究』第一編「純粋経験
第2回 「実在」の考究―西田幾多郎善の研究』第二編「実在」
第3回 「善」の考究―西田幾多郎善の研究』第三編「善」
第4回 「倫理」の考究―和辻哲郎『人間の学としての倫理学』第一章前半
第5回 「人倫」と「間柄」の考究―和辻哲郎『人間の学としての倫理学』第一章後半
第6回 日本独自の倫理学の考究―和辻哲郎『人間の学としての倫理学』第二章

仲正昌樹
1963 -
西田幾多郎
1870 - 1945
和辻哲郎
1889 - 1960

 

参考:

uho360.hatenablog.com

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