読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

ジョン・アシュベリー『凸面鏡の自画像』(原詩 1975, 左右社 飯野友幸訳 2021)

マニエリスム初期のイタリアの画家パルミジャニーノ(1503-1540)の「凸面鏡の自画像」(1524)をめぐって書かれた20世紀後半の代表的アメリカ詩人ジョン・アシュベリーの代表的長編詩の新訳。上智大学を退職する年度に行った大学院のセミナーをもとに30年ぶりに翻訳刊行された訳者にとっては記念碑的な著作だろう。いまこの時期にアシュベリーの詩集とは珍しいと思い手に取ってみた。
幸い旧訳も手許に残っていたのでそちらも読んでみた。
30代での訳業と60代での訳業。訳文だけでくらべてみると30代での訳のほうがスピード感があってより詩である印象が強いのだが、今回の新訳は行替えはあるけれどもどちらかというと散文詩風でしっとり読ませる。同じ詩の同じ訳者による翻訳なので、極端にちがうということはないのだが、それぞれ微妙に味わいが異なり、印象に残る箇所も微妙に異なるので、くりかえし読んでも飽きない。原詩自体が内容構成ともに高く評価され、また詠われる対象がパルミジャニーノの幻想味のある印象的な絵画作品ということもあって読み返すたびにすこし違った印象をもつことができる。表紙にパルミジャニーノの「凸面鏡の自画像」がカラープリントされているので、何度もそれを見ながら読みすすめられるのも本書のいいところだ。

 

【新訳】

それにしても、おまえの眼は公言する、すべては表層だと、
表層とはそこにあるもののことで、そこにあるもの
なしには何ものも存在しえないのだと。

(略)・・・・・・

この他者性、この「自分たちでないこと」だけを鏡のなかに
見さえすればいい、どうしてそうなったかは誰にも
わからないにせよ。

 

【旧訳】

しかし、おまえの目は
すべては表層なのだと言い張る。表層とはそこにあるもののことで
そこにあるものなくして何ものも存在し得ない。

(略)・・・・・・

この他者性、この
「私たちでないこと」だけを鏡の中に
見据えてさえいればいい、どうしてそうなったか
誰にもわからなくても。

 

訳者解題では、アメリカでのアシュベリーの「凸面鏡の自画像」をめぐる多くの(10人程度とりあげられていた)批評論考の紹介よりも、訳者によるアシュベリーの簡潔な肖像が印象に残った。

二〇世紀半ばにアメリカ詩の主流でさえあった「告白詩人」たち――自分の負の部分(精神疾患アルコール依存症)を詩のなかにあからさまに披歴する詩人――に背を向けて出発した詩人アシュベリー

新訳と訳者によるアシュベリー賛を読むことで、普段とは違う時間の流れ方を味わうことができた。パルミジャニーノの「凸面鏡」の歪みのようにひとめで見てとれるようなものではないが、読んでいるなかで引き伸ばされ強調されたり適正であったり歪んで判別しずらいものであったりする詩行の展開が、じわじわとくる幻想味と夢の中でのような異様な鮮明さを実現させている。

凸面鏡の自画像 | 左右社


目次:
凸面鏡の自画像
パルミジャニーノ ジョン・アシュベリー 飯野友幸
解題 飯野友幸
あとがき

Self-Portrait in a Convex Mirror(原文)
Parmigianino(原文)

 

パルミジャニーノ
1503-1540
ジョン・アシュベリー
1927-2017
飯野友幸
1955 -